中村林助と乾庄九郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/23 02:38 UTC 版)
中村林助と乾庄九郎が生まれた大郷村難波は、度々起こる姉川と高時川の氾濫による水害によって年貢米も納めかねるほど疲弊していた。水害に強い桑を植え養蚕に力を入れていたが、江戸時代中期には生糸の値段が下がり、大郷周辺の村々は困窮の極みに達していた。林助と庄九郎はこの状態を何とかしたいと考えていたところ、近隣の上八木村に蚕紙を買いに来た丹後宮津の商人庄右衛門から、「丹後では『ちりめん』織りを始めてから農民にも余裕ができるようになった」との話を聞き、早速『ちりめん』織りの技術を学びに丹後に行き、又、丹後から庄右衛門に来てもらい、村の人達に技術を伝えた。林助と庄九郎は宝暦2年12月(1753年1月)領主である彦根藩に届を出した上で、農閑期に『ちりめん』を織りそして販売することを始めた。これが『浜ちりめん』の最初と伝えられ、中村林助と乾庄九郎の二人は『浜ちりめん』の創始者と言われる。 『ちりめん』織りの生産はすぐに大郷村周辺から長浜全域へと広がり、琵琶湖を通って京でも販売されるようになった。これに対して京の業者達が「自分たちの営業を妨げるもの」として京都町奉行に訴えでたことから、林助と庄九郎は「(浜ちりめんを京で売ったのは)私利ではなく、村の困苦を救うため」と弁解したが、許されずに京での販売を禁じられた上、捕縛・入獄させられてしまった。村人の嘆願や領主である彦根藩からの働きもあり、漸く4年後解き放たれると共に、『浜ちりめん』の京での販売も認められることになった。この時、林助と庄九郎は大変喜び、西陣に勝ったことから、自分たちのちりめんを『西勝ちりめん』と呼んだ。彦根藩は林助と庄九郎の功績を称え、二人を『浜ちりめん』の織元に任じ、製品の検査を行わせ検印料徴収の特権を与えた。これにより、織元の検印を得られない粗悪品は販売できないことから、製品への信用力を得ることができ、彦根藩は『浜ちりめん』を年貢の対象とし、藩が保護した結果重要な特産品として発展していった。『浜ちりめん』は近江商人、特に湖東地区の商人により全国に売られた。
※この「中村林助と乾庄九郎」の解説は、「浜ちりめん」の解説の一部です。
「中村林助と乾庄九郎」を含む「浜ちりめん」の記事については、「浜ちりめん」の概要を参照ください。
- 中村林助と乾庄九郎のページへのリンク