中央橋_(梓川)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 中央橋_(梓川)の意味・解説 

中央橋 (梓川)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/01 01:28 UTC 版)

中央橋
基本情報
日本
所在地 長野県松本市
交差物件 信濃川水系梓川
建設 1983年
構造諸元
全長 225.45 m
9.75 m
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
テンプレートを表示

中央橋(ちゅうおうばし)は、長野県梓川に架かる松本市梓川岩岡と新村小宮・北新を結ぶ長野県道320号倭北松本停車場線[1][2]

概要

梓川地区から松本に通じる通称「岩岡橋」として、地域の人々に利用されてきた[2]1936年昭和11年)に、旧倭村が事業主体となり、長さ229メートルの木橋を架けたもの[2]。その後、梓川の氾濫により、橋脚や橋の一部が流されるなど、橋の維持に苦労が続いた[2]

1961年(昭和36年)6月の集中豪雨により、146メートルを流失した。合併後の梓川村は、公共土木施設災害復旧事業の認可を受け、復旧工事に当たったが、翌1962年(昭和37年)6月にも復旧した部分を流失するなどの不運に見舞われつつも、1963年(昭和38年)4月22日に竣工した。復旧総延長229メートル、幅員2.8メートルの木橋だったので、重量制限をして小型四輪以上は通行制限がされた[2]

1960年代後半になると、モータリゼーションの進行が進み、車両交通の増加が見られ、この橋のを増強が求められた。しかし、鋼製橋としての架け替えには県道への格上げが必要であるとして、関連自治体などが「倭北松本停車場線整備促進期成同盟会」を結成して、運動を展開した。この結果、1970年(昭和45年)1月に県道に認定されたが、長野県は同盟会に対して、5年間は永久橋化の運動をしないことを条件にしていた。1975年にも、橋脚が流失して復旧工事が行われ、通行止めの事態をもたらしていた[2]

1977年(昭和52年)に架替え工事の調査・測量が始まり、翌1978年度(昭和48年度)から本体工事に着工した。1983年(昭和58年)3月、長さ225.45メートル、幅員9.75メートル(うち車道部7.25メートル、歩道部2メートル、分離帯0.5メートル)のPCポステン単純T桁橋として、総事業費5億2800万円の経費で竣工した[2]

歴史

  • 1936年(昭和11年)3月 - 長さ229メートルの木橋として完成
  • 1961年(昭和36年) - 集中豪雨により146メートルを流失
  • 1963年(昭和38年)4月 - 災害復旧により2年ぶりに開通
  • 1970年(昭和45年)1月 - 橋を含む路線が県道になる
  • 1977年(昭和52年) - コンクリート橋脚鋼製橋の企画が緒につく
  • 1983年(昭和58年)3月 - コンクリート橋脚鋼製橋として完成

脚注

  1. ^ 地図閲覧サービス(中央橋)”. 国土地理院. 2013年10月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『梓川村誌 続編』p.380-381

参考文献

  • 梓川村誌編さん委員会『梓川村誌 続編』1999年3月



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中央橋_(梓川)」の関連用語

中央橋_(梓川)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中央橋_(梓川)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中央橋 (梓川) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS