両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り」の解説
1850年秋、イタリア半島南部の両シチリア王国を外遊した。イタリア半島各国では1848年革命の影響で自由主義ナショナリズム運動・イタリア統一運動が盛んになっており、イタリア半島各国は王権を守るためにその弾圧にあたっていた。とりわけ両シチリア王国国王フェルディナンド2世の自由主義者弾圧は苛烈を極め、多くの政治犯が残虐な取扱いを受けていた。 ナポリの刑務所を訪問してそれを間近に見たグラッドストンは両シチリア王国の自由主義者弾圧を「神の否定」に相当する反キリスト教行為であると看做して激しい怒りを露わにし、その暴虐を訴える手紙をアバディーン伯爵(1850年のピールの死後にピール派党首になっていた)に書き送った。またイギリス政府に提出した外遊報告書にもその件のみを書きつづった。庶民院でも外相パーマストン子爵に対してその件について質疑を正した。しかしイギリス政府もアバディーン伯爵も重い腰を上げようとしなかったので、ついにグラッドストンはアバディーン伯爵へ書き送った手紙を出版した。保守主義者に保守主義の悪面を取り除く勇気を持たせようとした内容だったが、保守主義者からの評判は悪かった。 この一件でグラッドストンは「神の否定」に相当する暴虐を平気で容認する保守主義に失望した。彼の党派はいまだホイッグではなかったものの、その思想はますます自由主義に近づいていくこととなった。 [先頭へ戻る]
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