下蒲池と上蒲池
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 09:56 UTC 版)
「文亀年中(1501年─1504年)、三潴郡蒲池の城主蒲池筑後守治久築きて居城せり」と『南筑明覧』に柳川城に関する記述があるが、蒲池氏の後の本城となる柳川城は、蒲池治久により蒲池城の支城として築かれることになる。また治久は、崇久寺を蒲池氏の菩提寺とした。 柳川城を本城とした蒲池氏の勢力拡大を危惧した大友氏は、蒲池治久の子の代の時に蒲池氏を兄・蒲池鑑久と弟・蒲池親広の二家に分割し、双方を同格の大名分とし、蒲池氏は柳川の蒲池鑑久の嫡流(下蒲池・家紋:左三巴)と山下の蒲池親広の分流(上蒲池・家紋:下り藤)になる(下蒲池や上蒲池という名称は両蒲池氏を区別するための便宜上の名称であり、またこの場合の「下」「上」は、下が西、上が東というように位置を表す。) 周防国を中心に大内氏は筑前守護も兼ね、筑後国の溝口氏、川崎氏、星野氏などが大内氏になびいたため大友義鑑は重臣の田北親貞を総大将とする軍を派遣。筑後からは蒲池鑑久が大友軍の一翼として出陣し、大内氏の影響を一掃する。しかし、大内氏は重臣の陶興房を使い筑後への浸透を諦めず、西牟田氏、溝口氏、三池氏、大津山氏が大内氏に呼応し、筑後の諸将は反大友方になるが、蒲池鑑久は田尻親種、草野鑑安と共に少数派ながら大友方につき、蒲池城は反大友方により包囲された。蒲池城には、池末、成清、山口、富安、矢賀部、大木、田尻、中山、本郷、原、丸野、大谷、池上、高松、藤末、中村などの蒲池累代の家臣たちが守り抜き、反大友勢を筑後から撃退した。
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