下田詰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 04:46 UTC 版)
安政元年(1854年)日米和親条約に基づく箱館港開港に向け、岩瀬弥四郎と箱館に赴任した。安政2年(1855年)小通詞助。安政2年(1855年)3月下田奉行から通詞増員の要請があり、9月田中三四郎と下田に異動した。 安政3年(1856年)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが来港すると、三四郎の後任立石得十郎と応対に当たったが、2人の語学力は外交交渉に耐えず、下田奉行支配調役並勤方森山多吉郎が日米修好通商条約交渉の通訳を主導した。安政4年(1857年)ハリスの江戸参府に通詞として付き添い、老中堀田正睦邸での会見に森山と同席した。 フランス全権大使ジャン・バティスト・ルイ・グロとの日仏修好通商条約交渉にも関わったらしく、使節から金38両2分永80文、通訳メルメ・カションからフランネル製襦袢・手遊目鏡・香水・スカーフを贈られている。 万延元年(1860年)小通詞過人、文久元年(1861年)小通詞に進み、文久2年(1867年)年番通詞を務めた。慶応3年(1867年)5月28日52歳で死去した。墓所は長崎晧台寺、戒名は寂菴秋声居士。
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