万暦の中興とは? わかりやすく解説

万暦の中興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 04:38 UTC 版)

万暦の中興(ばんれきのちゅうこう)は、明王朝第14代皇帝である万暦帝の治世に起こった、明の中興を指す。

概要

代、賢君であった弘治帝以後の皇帝は暗愚で贅沢を好み、国政を壟断する佞臣を大量に近づけて国を傾けた。万暦帝も例外ではなく、明代で最も長い治世において働くことはほとんどなく、後宮に引きこもり朝議にも顔を出すことはなかった。このような時代に明の国力が回復したのは、以下に記すように内閣大学士であった張居正の政治的業績に依るものが大きい[1]

張居正の政策

張居正の時代、年功序列に基づく伝統的な偏見を打ち破る試験方式である考正法が導入され、経済的には国土の規模を測り、穀物に対する中央政府のマクロ管理を強化するための一条鞭法が導入された。また、治水事業として黄河を管理するために潘継勲を派遣し、軍事的には腐敗した明軍の風紀を是正し、倭寇対策として沿岸に防衛隊を配備するなどの大改革を行い、国全体にその恩恵をもたらした[1]

万暦の中興後の明

万暦の中興の立役者であった張居正は、万暦前期に逝去した。前述の通り、その後の万暦帝は国政を顧みずに贅沢や好色に耽ったため、国は傾き始めた。その後、実際に明が滅亡するのは第17代崇禎帝の時代であるが、崇禎帝は崩れ行く明を立て直そうとした。その願いが叶うことのなかったわけは、万暦期の停滞が大きな原因と考えられている。これが、「明朝は万暦に滅ぶ」と評される理由である[1]

脚注

  1. ^ a b c 万历中兴-中国地名文化网”. web.archive.org (2015年1月6日). 2025年1月23日閲覧。

万暦の中興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 09:54 UTC 版)

万暦帝」の記事における「万暦の中興」の解説

隆慶帝第3子として生まれ10歳9歳という説も)で即位した即位直後主席大学士宰相張居正の手腕により、両税法にかわる一条鞭法導入無駄な官職撤廃全国的な検地無用な公共事業廃止などにより財政好転し満州女真李成梁により一時的に落ち着いた態となり、内外政で大きな成果上げた。また帝自身幼少年期には聡明利発で、将来大器目されていた。

※この「万暦の中興」の解説は、「万暦帝」の解説の一部です。
「万暦の中興」を含む「万暦帝」の記事については、「万暦帝」の概要を参照ください。

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