ワパトミカ処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:05 UTC 版)
「クロウフォード遠征」の記事における「ワパトミカ処刑」の解説
クロウフォードが処刑されたのと同じ日、少なくとも6名のアメリカ兵捕虜が2つのグループに別れ、マッド川沿いのワパトミカ、現在のオハイオ州ローガン郡にあったショーニー族の集落に連れて行かれた。この捕虜の中には遠征隊の中で第4位の指揮権があったジョン・B・マクレランド少佐、ウィリアム・ハリソン(クロウフォードの義理の息子)および兵卒のウィリアム・クロウフォード(クロウフォードの甥)も含まれていた。6名のうち、マクレランド、ハリソン、クロウフォードを含む4名は顔を黒く塗られた。村人達は伝令から、次に来る捕虜達が2列で来ることを知らされていた。捕虜達は集会所まで約300ヤード (270 m) の距離をガントレットの間を走らされた。捕虜達が走りすぎるとき、村人達は彼らを棍棒で殴り、とくに顔を黒く塗られた捕虜に集中した。顔を黒く塗られた捕虜はトマホークで死ぬまで殴られた後に、その体を切り刻まれた。その頭部と手足は町の外れにある柱の側に積まれた。捕虜の一人、ジョン・スローバーという斥候はマカチャック(現在のオハイオ州ウェストリバティ)に連れて行かれたが、火刑に処される前に逃亡した。彼は裸のまま、馬を盗んでそれが疲れ果てるまで乗り進み、その後は足で走って7月10日にピット砦に辿りついた。帰還した最後の生き残りだった。
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