ワヒド大統領とメガワティ大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:01 UTC 版)
「モハマッド・ユスフ・カラ」の記事における「ワヒド大統領とメガワティ大統領」の解説
1999年の MPR でアブドゥルラフマン・ワヒドが大統領に選出されると、カラは通商産業大臣として入閣した。しかし、2000年4月、在任期間わずか6ヶ月で、国営企業担当国務大臣ラクサマナ・スカルディ(闘争民主党)とともに解任された。 2人に汚職の疑いがあったからだというが、ワヒド大統領はその証拠を何も示さなかった。 もともと政権基盤の弱かったワヒド政権は、これでゴルカルと闘争民主党の支持を失った。2001年7月23日、大統領弾劾の審議を行う MPR 特別総会が開かれた。そこでワヒド大統領の更迭、メガワティ副大統領の新大統領就任が承認された。 カラはメガワティ政権の公共福祉担当調整大臣として入閣した。その大臣管掌事項ではなかったにもかかわらず、カラは生まれ故郷、スラウェシ島のポソ県で発生した宗教紛争の解決に奔走した。カラはムスリムとキリスト教徒の代表者を交えて交渉プロセスを押し進めた。そして2001年12月20日、マリノ宣言署名にこぎ着け、三年に及ぶ宗教紛争に終止符を打った。その2ヶ月後、スラウェシのもう1つの紛争を解決するのにも尽力。さらにアンボン、モルッカでの似たような宗教紛争についても、政治治安担当調整大臣スシロ・バンバン・ユドヨノと共に、2002年2月12日、第2次マリノ宣言に何とかこぎ着けることによって、解決に導いた。
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