ラ・マッダレーナでの不戦敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/12 09:09 UTC 版)
「サルデーニャ遠征」の記事における「ラ・マッダレーナでの不戦敗」の解説
トルゲが成果もなくカリャリを去る中、別のフランス軍がサルデーニャ北部での戦役を準備していた。この軍勢は主にコルシカ島(当時、コルシカ独立を支持していたパスカル・パオリが実質的に支配していた)からの軍であった。コルシカは1768年にフランスの侵攻(英語版)を受けており、パオリはフランス革命の後、コルシカの自治を求めていた。彼はトルゲによるカリャリ攻撃への援護として陽動作戦を計画、サルデーニャの北にあった、ラ・マッダレーナという小さいながら要塞化された島を攻撃しようとした。コルシカ義勇軍450人が組織され、パオリのいとこであるコロンナ・チェーザリ(Colonna Cesari)が指揮官を務めた。彼の副官はコルシカ出身の砲兵士官でパオリの政敵であるナポレオン・ボナパルトだった。 遠征軍はアジャクシオでの嵐により遅れ、ラ・マッダレーナ沖に到着したのは1793年2月22日のことだった。遠征軍は到着するとサント・ステファノ島(英語版)沖に錨を下ろした。ナポレオンは夜襲を主張したが、チェーザリに却下された。翌朝、遠征軍はサント・ステファノ島を強襲、占領して、2月24日に島の砲台でラ・マッダレーナを砲撃した。チェーザリは翌日にラ・マッダレーナへの上陸を行うと宣言したが、夜中にコルベット1隻の船上で反乱がおき、チェーザリはすぐに攻撃もサント・ステファノ島も放棄して撤退を命じた。チェーザリはナポレオンに警告を発せず、ナポレオン率いる軍勢があやうくサント・ステファノ島に残されてサルデーニャの反撃に晒されていたところだったこともあり、ナポレオンは激怒した。撤退の最中、ナポレオンの軍勢は大砲を載せるボートが足りず、一部を破壊せざるを得なかった。その後、ナポレオンはチェーザリがパオリの命令で反乱を捏造したと訴えた。
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