ヨンシエブ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 17:10 UTC 版)
エセン・ハーンの死後、モンゴル周辺では統一的な勢力が存在せず、ハラチン部のボライ、オンリュート(アバガ部)のモーリハイなど、各地で有力な首長が並び立った。同時期にトルファン方面ではメクリン部出身のベグ・アルスランが登場し、当初は僅かな兵力しか持たなかったがやがて勢力を拡大し、メクリン部を統治するに至った。オルドス高原でボライ、モーリハイが相継いで亡くなると、ベグ・アルスランは天山山脈の住地を離れて東遷し、オルドス地方に移住した。ベグ・アルスランはそれまで率いていたメクリン部に加えてアスト部、ハラチン部を併合し、「大ヨンシエブ」部を構成した。 一方、ベグ・アルスランに従わず天山山脈に居住したままの者達もいた。成化9年(1473年)、モグーリスタン・ハン国のスルタン・アリーはクムルを急襲・掠奪し、クムルに属する諸民族は赤斤蒙古衛などに逃れざるを得なくなった。そこで明朝は逃れてきたクムルの臣民に官職を授け保護したが、その中でメクリン部頭目トクトア・ブカもまた指揮僉事とされた。明朝ではトクトア・ブカ及び共に逃れてきた哈密都督の罕慎を支援してクムルを再興させようとしたが、これは実行されることがなかった。また、トルファンによるクムル占領以後、クムルの弱体化によってメクリン部は自立化するようになり、明代の漢文史料ではこの頃より明朝の招撫を受けないメクリン集団の事を「野乜克力」と呼称するようになっている。 成化20年(1484年)にはメクリン部はトルファンとの戦いで劣勢になり、明朝の甘粛方面に移住してきた。成化23年(1487年)、オイラト内部でも内部分裂が生じ、アシャ太師やウマサンジャ王が南下してメクリン部近隣に移住し、メクリン部はオイラト部とともに明朝の辺境(甘粛方面)への侵攻を狙うようになった。
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