ユトランド北部の戦況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 06:11 UTC 版)
「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の記事における「ユトランド北部の戦況」の解説
2月にプロイセン軍主力から分離したオーストリア軍およびプロイセン混成近衛師団はヘッケルマン将軍のデンマーク軍の追撃に移っていた。本来、列強からの外交干渉を防ぐため、デンマーク本国への進撃はしない方針であったが、プロイセン混成近衛師団は勝ちに乗じて17日にはデンマーク領に侵入してコリングを占領した。なし崩し的にイギリスの干渉を覚悟で攻勢を継続することとなったプロイセン・オーストリア連合軍は3月8日から前進を再開し、プロイセン混成近衛師団はフレゼリシア要塞の攻撃に向かい、オーストリア軍はヴァイレの地を拠点にしたデンマークのヘッケルマン将軍を攻撃対象とした。8日、オーストリア軍は激戦の末、ヴァイレを占領し、プロイセン混成近衛師団がデュペル堡塁攻撃のために転進したあとのフレゼリシア要塞の包囲を続け、デンマーク軍の自主撤退により4月28日にこれを占領、更に北進して占領地を広げていった。
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