モンスター・ファクトリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/16 02:26 UTC 版)
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モンスター・ファクトリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:54 UTC 版)
「ラリー・シャープ」の記事における「モンスター・ファクトリー」の解説
シャープは選手としてリングに上がる一方、ケビン・フォン・エリック、トニー・アトラス、キングコング・バンディらのトレーナーも務めていた。その実績を背景に、同郷のバディ・ロジャースの協力のもと、1983年に地元ニュージャージーにてプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー(Monster Factory)」を開設。ユニークな人材を次々と発掘・育成してプロレス界に送り込むことになる。その第1号となったクラッシャー・ユーコフことバンバン・ビガロの出現は、モンスター・ファクトリーの名を世界中に知らしめた。シャープはビガロのマネージャーも担当し、1987年にはビガロに同行して新日本プロレスへ久々に来日。ディック・マードックとの対立アングルも組まれ、ビガロと組んでタッグマッチにも出場した。 その後もパートタイムで東部地区のインディー団体に出場していたが、1991年に現役を引退してスクール運営に専念。以来、晩年まで数多くのスターを輩出した。プロレスラーとしてのキャリアはB級のポジションで終わったものの、長期間に渡ってWWFで中堅を務めた試合運びの巧さやマイクパフォーマンスのスキルを有する名伯楽として、ビンス・マクマホンやブレット・ハートからも信頼を寄せられていた。 2017年4月10日、肝臓癌のため66歳で死去。
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