モニク・ド・ラ・ブリュショルリとは? わかりやすく解説

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モニク・ド・ラ・ブリュショルリ

(モニーク・ド・ラ・ブリュショルリ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/17 06:07 UTC 版)

モニク・ド・ラ・ブリュショルリ
生誕 (1915-04-20) 1915年4月20日
フランス パリ
死没 (1972-04-20) 1972年4月20日(57歳没) 
ルーマニア ブカレスト
学歴 パリ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

   

モニク・ド・ラ・ブリュショルリ[1](Monique de la Bruchollerie、1915年4月20日 パリ - 1972年12月14日 ブカレスト)はフランスのピアニスト。

経歴

生い立ち

1915年パリで生まれた。ド・ラ・ブリュショルリ家は音楽家の家系であり、フランソワ=アドリアン・ボイエルデューアンドレ・メサジェが祖先にいる。7歳でパリ音楽院に入学し、両親の親友イシドール・フィリップに師事。1928年に音楽院を首席で卒業した。その後はパリでアルフレッド・コルトーに、ウィーンエミール・フォン・ザウアーに、ベルリンでラウル・コチャルスキの下で学んだ。

1932年シャルル・ミュンシュの指揮で協奏曲を演奏して、ピアニストとして活動する突破口を開いた。1936年から1938年まで数々のコンクールで成功を収めており、1937年にはワルシャワショパン国際コンクールに入選した。

第二次世界大戦後

第2次世界大戦後に米国ポーランドなどで国際的な活躍を始め、オイゲン・ヨッフムエルネスト・アンセルメヤン・クレンツヘルベルト・フォン・カラヤンセルジュ・チェリビダッケらの著名な指揮者と共演するも、1966年12月にルーマニア自動車事故により左手の機能を失い、演奏活動から引退を余儀なくされた。

晩年は教育活動に献身し、ジャン=マルク・サヴェリ、Jean-Marc Savelli, シプリアン・カツァリスらを育成した。1972年、ブカレストにて死去。

脚注

  1. ^ または「ブルショルリ」「ブリュッショルリ」と日本語表記されたこともある。




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