メジロアサマにかけた執念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 07:59 UTC 版)
「北野豊吉」の記事における「メジロアサマにかけた執念」の解説
1970年の天皇賞(秋)優勝馬であったメジロアサマは現役時代に流感にかかった際に抗生物質を使った後遺症のため、生殖機能が極度に悪くなっていて初年度の受胎数はゼロと即種牡馬廃業になってもおかしくない状況であった。それでも「アサマの仔で天皇賞を勝つ」と誓った豊吉は周りから馬鹿にされながらも人間の(獣医ではない)産婦人科医に診てもらったり、大枚をはたいて輸入した牝馬に種付けを試みた。その結果、輸入牝馬・シェリルとの間に生まれたのが1982年の天皇賞(秋)優勝馬・メジロティターンであった。メジロティターンによる天皇賞制覇の2年後に死去した豊吉の遺言は、「ティターンの仔で天皇賞を勝て」であった。妻のミヤは夫の遺志を実現すべくメジロ牧場を引き継ぎ、7年目にして、メジロティターン産駒のメジロマックイーンが1991年の天皇賞(春)を制する。優勝した瞬間、ミヤは豊吉の遺影を胸に「おじいさんの夢がようやく叶った」と涙したという。
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