ムヌーサの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 06:14 UTC 版)
「ウマイヤ朝のガリア侵攻」の記事における「ムヌーサの反乱」の解説
725年までに、セプティマニア全土がウマイヤ朝に征服された。しかし731年、ピレネー山脈付近に勢力を持っていたベルベル人のムヌーサがコルドバのウマイヤ朝政庁から独立し、ベルベル人の軍事力を背景とした政権を樹立した。彼はイスラーム勢力との国境の安定を望んでいたアクィタニア公ウードと同盟し、その娘と結婚した。また彼はウルジェイの司教を殺害した。 新たにコルドバの長となったアブドゥッラフマーン・ガーフィキーはベルベル人を懲罰するため遠征し、ムヌーサをサルダーニャに包囲した。モサラベ年代記によれば、懲罰の理由は一人のゴート人司教を殺害した罪のみであった。ウードはフランク王国のカール・マルテルと対峙していたため救援に赴けず、結局ムヌーサは敗れて処刑された。
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