マンダレーの失陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 04:24 UTC 版)
マンダレー北方地区では、1月上旬より第15師団が防御していたが、3月上旬にはマンダレーまで圧迫させられていた。第15軍は第15師団にマンダレー死守を命令。元第33軍参謀長として拉孟・騰越の兵士を玉砕させてしまった第15師団長山本清衛中将にとっては心痛いところであったが、第15軍の厳命により玉砕覚悟でマンダレー防衛戦に望んだ。3月9日早朝、イギリス軍はマンダレーヒル頂上に奇襲をかけ、これを占領した。対する日本軍はなお丘の南半分を確保し、13日イギリス軍によって完全占領されるまで頑強に抵抗した。3月10日には、イギリス軍がマンダレー市街地へと進撃し、建物による日本兵は英兵と寸土を争って戦った。3月18日、抵抗の限界と見た第15軍司令官はマンダレー撤退を命令。第15師団は夜襲によって血路を開き、19日夜マンダレーを撤退した。
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