マリエンブルク包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:07 UTC 版)
「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の記事における「マリエンブルク包囲戦」の解説
グルンヴァルトの戦いの後、ポーランド・リトアニア軍は3日間戦場にとどまり、その後1日に平均15㎞というかなりゆるやかな速度でドイツ騎士団国の首都マリエンブルクに向かった。7月26日まではこのマリエンブルク城はまともな防備が整えられていなかったが、ポーランド・リトアニア軍の進軍遅延のおかげで、新総長ハインリヒ・フォン・プラウエンは城の守りを固めることができた。ポーランドの歴史家パヴェウ・ヤシェニツァは、このポーランド・リトアニア軍の動きはヴィータウタスおよびリトアニアとの微妙な力関係に配慮したヨガイラの意図的なものだったと推測してるが、一次史料が不足しているために決定的な結論は出されていない。 一方でヨガイラは、他の各地のドイツ騎士団要塞に部隊を派遣した。ほとんどの要塞は抵抗せず降伏し、その中にはダンツィヒ(グダンスク)、トルン、エルビング(エルブロンク)も含まれていた。ドイツ騎士団の手中に残った要塞は8つだけだった。ポーランド・リトアニア軍はマリエンブルクを包囲したが、長期戦への備えが不充分だったため、弾薬不足、士気の低下、赤痢に苦しめられた。ドイツ騎士団は同盟者であるハンガリー王ジグムンドやローマ王ヴェンツェルに助けを求め、またリヴォニア騎士団はドイツ騎士団に金銭的・軍事的支援を約束した。9月19日、ポーランド・リトアニア軍はマリエンブルク攻略を諦め、占領した城塞に守備兵を残して撤退した。ドイツ騎士団はすぐさま失った城塞のほとんどを奪還した。10月末の時点で、ポーランドは奪った城塞のうち国境地帯の4つしか保持できていなかった。ヨガイラは新たに遠征軍を組織し、10月10日にコロノヴォの戦いで改めてドイツ騎士団を破った。その後、両陣営は交渉を始めることで合意した。
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