ヘンリー・マシューズ (初代ランダッフ子爵)とは? わかりやすく解説

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ヘンリー・マシューズ (初代ランダッフ子爵)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 07:16 UTC 版)

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初代ランダッフ子爵
ヘンリー・マシューズ
Henry Matthews
1st Viscount Llandaff
1890年頃のマシューズ
生年月日 1826年1月13日
出生地 イギリス領セイロン
没年月日 (1913-04-03) 1913年4月3日(87歳没)
出身校 パリ大学ロンドン大学
前職 法廷弁護士
所属政党 保守党
称号 初代ランダッフ子爵、勅選弁護士英語版(QC)、枢密顧問官(PC)

内閣 第2次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間 1886年8月3日 - 1892年8月11日[1]

庶民院議員
選挙区 ダンガーバン選挙区英語版
東バーミンガム選挙区英語版[2]
在任期間 1868年11月17日 - 1874年1月31日
1886年7月1日 - 1895年7月13日[2]

貴族院議員
在任期間 1895年 - 1913年4月3日[2]
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初代ランダッフ子爵ヘンリー・マシューズ[3]: Henry Matthews, 1st Viscount Llandaff, PC, QC, 1826年1月13日 - 1913年4月3日)は、イギリスの政治家、貴族。

保守党所属の政治家であり、第2次ソールズベリー侯爵内閣において内務大臣(在職1886年 - 1892年)を務めた。1895年にランダッフ子爵に叙せられるが、子供がなかったため、爵位を継承させられなかった。

経歴

1826年1月13日イギリス領セイロン(現スリランカ)の陪審判事ヘンリー・マシューズとその妻エマの長男としてセイロン島で生まれる[4][5]

1844年パリ大学を卒業し、ついで1849年ロンドン大学を卒業した。1850年にはリンカーン法曹院で学び、法廷弁護士資格を取得[4]1864年から1869年にかけては紋章院総裁の秘書官を務める[4]1868年には勅選弁護士英語版となる[4]

1868年から1874年にかけてダンガーバン選挙区英語版から選出されて保守党所属の庶民院議員を務める[4]1886年から1895年にかけては東バーミンガム選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務める[4]

1886年8月から1892年8月にかけて第2次ソールズベリー侯爵内閣の内務大臣を務める[1]。就任早々マシューズは警察の信頼回復のための人心一新を企図して陸軍少将サー・チャールズ・ウォーレン英語版首都警察警視総監英語版に据えた。しかしウォーレンは1887年ハイド・パークで起こった失業者による「仕事かパン」デモを近衛連隊を動員して弾圧したため、民心はますます警察から遠いた[6]

1888年に発生した切り裂きジャック事件をめぐっては警視総監ウォーレンと副警視総監・犯罪捜査部長ジェームズ・モンロー英語版の対立が深まったため、マシューズは11月にもウォーレンの辞表を受理してモンローを後任の警視総監としている[7]。また同月「共犯者ないし実行犯以外の者で、犯人につながる情報、証拠をもたらした従犯者は、女王陛下の御慈悲により内務大臣は特赦することを認める」とする特赦状を発したが、結局犯人は見つからなかった[7]

内務大臣退任後の1895年8月5日連合王国貴族爵位「ヘレフォード・カウンティにおけるヘレフォードのランダッフ子爵(Viscount Llandaff of Hereford in the County of Hereford)」に叙せられ[4][8]貴族院議員に列する[2]

1913年4月3日に死去。子供はなく、彼の死とともにランダフ子爵位は消滅した[4]

栄典

爵位

その他

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b 秦(2001) p.509
  2. ^ a b c d UK Parliament. “Mr Henry Matthews” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年9月16日閲覧。
  3. ^ ワイントラウブ(1993)下 p.309-310
  4. ^ a b c d e f g h i j k Lundy, Darryl. “Henry Matthews, 1st and lst Viscount Llandaff” (英語). thepeerage.com. 2014年9月16日閲覧。
  5. ^ Lundy, Darryl. “Henry Matthews” (英語). thepeerage.com. 2014年9月16日閲覧。
  6. ^ ウィルソン(1990) p.74-75
  7. ^ a b ウィルソン(1990) p.86
  8. ^ a b "No. 26650". The London Gazette (英語). 6 August 1895. p. 4431.
  9. ^ "No. 25614". The London Gazette (英語). 6 August 1886. p. 3779.

参考文献

外部リンク

公職
先代:
ヒュー・チルダース
内務大臣
1886年 - 1892年
次代:
ハーバート・ヘンリー・アスキス
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代:
チャールズ・ロバート・バリー英語版
ダンガーバン選挙区英語版選出庶民院議員
1868年 - 1874年
次代:
ジョン・オキーフ
先代:
ウィリアム・トマス・グスターヴ・クック英語版
東バーミンガム選挙区英語版選出庶民院議員
1886年 - 1895年
次代:
サー・ジョン・ベンジャミン・ストーン英語版
イギリスの爵位
新設 初代ランダッフ子爵
1895年 - 1913年
廃絶



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