ヘビー級転向 - 「太陽ケア」に改名
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「太陽ケア」の記事における「ヘビー級転向 - 「太陽ケア」に改名」の解説
1998年6月にヘビー級転向を目指すため、王座を返上した。 8月22日から始まった恒例の試練の七番勝負ではプロレス四天王には勝利できなかったものの、ウルフ・ホークフィールド、ジャイアント・キマラ、ジョニー・スミスには勝利し、3勝4敗の好成績を残す。だが、この時期マッチメイク権を手にしていた三沢光晴に「体はブヨブヨで、オフになると道場に残らずにハワイに帰ってしまう」と酷評され、そのためかトップクラスにはほとんど絡めない時期が続いた。 しかし2000年になると、バーニング(第1次)を離脱した秋山準にタッグパートナーとして指名されチームを結成(秋山軍)、飛躍のきっかけをつかむが数ヶ月後に選手大量離脱が発生した。モスマンも全日本プロレスに残留したが、ほかの秋山軍メンバーは離脱した。8月20日には公募によりリングネームを本名の「マウナケア・モスマン」から現在の「太陽ケア」に変更する。 2001年1月14日、スミスと組んで川田利明&渕正信組と世界タッグ王座決定戦を行い、これに勝利して第43代王者となった。
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