ジョン・プレスパー・エッカート
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ジョン・プレスパー・エッカート
John Presper Eckert |
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ジョン・プレスパー・エッカート(1952年)
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| 生誕 | 1919年4月9日 |
| 死没 | 1995年6月3日(76歳没) |
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| 職業 | 電気工学者 |
| 著名な実績 | ENIAC |
| 受賞 | ハリー・H・グッド記念賞(1966年) アメリカ国家科学賞(1968年) ハロルド・ペンダー賞(1973年) IEEEエマニエル・R・ピオレ賞(1978年) |
プレス・エッカート(Pres Eckert)ことジョン・アダム・プレスパー・エッカート・ジュニア(John Adam Presper Eckert Jr.、1919年4月9日 - 1995年6月3日)は、アメリカ合衆国の電気工学者であり、計算機科学の先駆者である。ジョン・モークリーと共に、世界初の汎用電子デジタルコンピュータ・ENIACを設計し、EDVACの開発に従事し、プログラムをメモリに記憶させるアーキテクチャ(ノイマン型)の着想者のひとりとなり、その後、アメリカ合衆国初の商用コンピュータであるUNIVAC Iを設計した。初期のスーパーコンピュータLARCの設計責任者でもあった。
来歴
エッカートはフィラデルフィアの裕福な不動産業者ジョン・エッカートの子として生まれ、フィラデルフィアのジャーマンタウン地区の大きな家で育った。小学校時代、彼はウィリアム・ペン・チャーター・スクールへ自家用車で運転手に送られて通学した。高校では、フィラデルフィアの技術者クラブに参加し、チェスナットヒルの発明家フィロ・ファーンズワースの実験室で午後を過ごした。カレッジボード試験では数学で全米2位だった[1]。
エッカートは1937年、18歳で[注釈 1]ペンシルベニア大学に入学し、当初は両親の勧めに従い経済学部(ウォートン・スクール)でビジネスを勉強したが、その年のうちに電気工学部(ムーア・スクール)に転部した。1940年、エッカートが21歳のとき、最初の特許である「光変調法と装置」を申請した[2][注釈 2]。ムーア・スクールでは、レーダーのタイミングの研究に従事し、ムーア・スクールの微分解析機の速度と精度を改善し、1941年には戦争省がムーアスクールを通じて提供した訓練である工学・科学・戦争管理訓練プログラム(ESMWT)の夏季電子工学コースの指導を支援した。
ENIACの開発
当時近くのアーサイナス大学の物理学科長だったジョン・モークリーは、ESMWTの夏季電子工学コースを受講していた。翌年の秋にはムーアスクールで教職を務めた。モークリーの、砲弾の弾道表を計算するため、微分解析機より何倍も速く正確な真空管を使った電子デジタル計算機を構築するという提案は、ムーアスクールの陸軍リエゾンだったハーマン・ゴールドスタイン中尉の興味を引き、1943年4月9日にアバディーン性能試験場での会議で正式に発表された。ムーアスクールが提案した計算機の構築について契約が締結され、その装置はENIACと命名された。エッカートはプロジェクトのチーフエンジニアになった。ENIACは1945年末に完成し、1946年2月に一般に公開された。
1946年3月、エッカートとモークリーは、大学で開発された知的財産権の譲渡をめぐる大学との紛争でムーアスクールを去った。その年、ペンシルベニア大学は、後援した研究の知的純度を保護するための新しい特許ポリシーを採用し、それによればもし彼らが3月以降も大学に在籍した場合、全ての特許を大学に譲渡しなければならなくなる。エッカートとモークリーがペンシルベニア大学と交わした合意では、エッカートとモークリーはENIACの特許権を保持しているが、大学は政府と非営利団体にライセンスを供与することができる。大学は、特許に対する商業的権利も持つように契約を変更したいと考えていた。
UNIVACプロジェクトの開始
1946年9月25日、エッカートとモークリーらは個人として国立標準局とUNIVAC(当初は「EDVAC II」という名称の計算機)の開発契約を得た。
起業
翌月、1947年12月22日にエッカートとモークリーはElectronic Control Company(後のエッカート・モークリー・コンピュータEckert–Mauchly Computer Corporation (EMCC社))を設立し、エッカートは副社長 (vice president)となった。
だがUNIVACは大規模プロジェクトで、開発には数年かかることが容易に予想され、当面の資金繰りをどうつけるかが課題となった。
BINACの開発
とりあえずUNIVACより小さいコンピュータで、短期間で完成・納品でき売上(現金)を得られるものとして、ノースロップ社向けにBINACの建造契約を結び、開発・製造に着手。BINACの建造契約は1947年10月9日に締結され、1949年8月に完成、1949年9月納品。なお、BINACは納品後すぐには正常に動作せず、使われたのは1950年8月からである。BINACのもたらした大きな進歩は、データを磁気テープに保存することである。結果として、BINACはUNIVACのプロトタイプのような存在にもなった。エッカートは1949年にハワード・N・ポッツ・メダルを授与された。 BINAC納品数ヶ月前1949年6月[注釈 3]にEMCCの従業員一同で写った写真が残っており、その時点でEMCCは約29名の従業員を擁していたことが判っている[注釈 4]。
資金難、買収、UNIVACの開発継続
BINACを納品したもののまだ正常に動かない状態だった時期に、EMCC社は資金が枯渇し、1950年2月15日、、エッカート・モークリー社(EMCC)はレミントンランド に買収され、EMCC はレミントンランド の子会社扱い、そしてレミントンランド社の"Eckert‑Mauchly部門"という位置づけとなり、UNIVAC部門となった。エッカート個人はレミントンランド社の幹部という立場になり、UNIVACに関わり続け、特にロジック設計・ソフトウェア部門で関与し、1950年12月21日にUNIVAC Iが完成した。UNIVAC部門は、やがてレミントンランドのタビュレータ部門と統合されより大きくなり、エッカートはその後もUNIVAC部門で勤務しつづけた。
1968年、「高速電子デジタルコンピュータの作成、開発、および改良における先駆的かつ継続的な貢献」に対してアメリカ国家科学賞を受賞した[3]。
スーパーコンピュータ「LARC」の開発
エッカートはレミントンランドに残り、同社の重役となった。ENIACの設計者の一人だったジェフリー・チュアン・チューも招いてレミントンランド初のスーパーコンピュータであるUNIVAC LARCの開発を推し進めた[4][5][6]。[注釈 5] エッカートは1955年に UNIVAC‑LARC の設計チームの責任者 (chief engineer or put in charge of design team) に任命された。
その後(幹部的技術者から相談役へ)
- レミントンランド→スペリーランド→バローズ→ユニシスでの勤務
レミントンランドはスペリーランドとなってもスペリー社の中でUNIVACブランドは継続し、エッカートは幹部的技術者でありつづけ、同社が1986年にバローズに吸収合併されてユニシスとなってもエッカートは引き続き勤務しつづけた。1989年(70歳前後のころ)、エッカートはユニシスを"退職"したが、同社の相談役として勤務を続けた。
彼は1995年にペンシルベニア州ブリンマーで白血病で亡くなった。
死後の2002年に、彼は全米発明家殿堂に殿堂入りした[7]。
脚注
- 注釈
- ^ 当時の標準的な入学年齢。飛び級ではない。
- ^ 特許番号は US 2283545
- ^ BINAC建造作業の"追い込み"の時期に当たる。
- ^ 29名もの従業員を抱え、それが設立数年後でわずか1台のコンピュータを納品しつつある会社にしては人数が多く、会社の支出の内訳は通常は人件費が最大の要素であるが、すでに過剰な負担となっていた。
- ^ エッカートは、1953年から1964年までレミントンランドで技術部門長 (department head) を務めており、その技術部門記録ファイルには LARC の開発 に関する記録も含まれる。
- 出典
- ^ McCartney, Scott (1999). ENIAC: The Triumphs and Tragedies of the World's First Computer. New York: Walker and Company. pp. 39–41. ISBN 0-8027-1348-3. LCCN 98-54845
- ^ US 2283545, Eckert, John Presper, Jr., "Light Modulating Method and Apparatus", issued May 19, 1942
- ^ “The President's National Medal of Science: Recipient Details”. National Science Foundation. 2014年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月28日閲覧。
- ^ Encyclopedia of computer science and technology: Volume 2 - AN/FSQ-7 Computer to Bivalent Programming by Implicit Enumeration. By Jack Belzer, Albert Holzman and Allen Kent. CRC Press, 1975.
- ^ “Jeffrey Chuan Chu”. IEEE Computer Society. 2019年8月25日閲覧。
- ^ “Jeffrey Chuan Chu 朱傳榘”. Jeffrey Chuan. 2019年9月17日閲覧。
- ^ “J. Presper Eckert”. National Inventors Hall of Fame. 2019年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月28日閲覧。
- From Dits to Bits: A personal history of the electronic computer. Portland, Oregon, USA: Robotics Press. (1979). ISBN 0-89661-002-0. LCCN 79--90567
外部リンク
- Oral history interview with J. Presper Eckert - ミネソタ大学チャールズ・バベッジ研究所。ENIACの共同発明者であるエッカートが、ペンシルバニア大学のムーア・スクールでENIACの開発について論じ、ENIACの特許権を確保することの難しさと、ENIACの発明をパブリックドメインにしたジョン・フォン・ノイマンの1945年のEDVACに関する報告書の第一草稿の回覧によってもたらされた問題について説明している。1977年10月28日、ナンシー・スターンによるインタビュー。
- Oral history interview with Carl Chambers - ミネソタ大学チャールズ・バベッジ研究所。ENIACスタッフ間の相互関係について説明し、モークリーとエッカートの性格と仕事上の関係に焦点を当てている。
- A Tribute to Dr. J. Presper Eckert Co-Inventor of ENIAC. 2000 Daniel F. McGrath Jr.
- ENIAC museum - ペンシルベニア大学
- Q&A: A lost interview with ENIAC co-inventor J. Presper Eckert
- 1989 interview of Eckert by Alexander Randall 5th, published February 23, 2006 on KurzweilAI.net. Includes Eckert's reflections on the creation of ENIAC.
- Interview with Eckert - 1988年2月2日のスミソニアン協会国立アメリカ歴史博物館でのDavid Allisonによるエッカートとのビデオインタビューの書き起こし。設計の背後にある思考過程を含む、ENIACに関する詳細な技術的な議論。
- プレス・エッカートのページへのリンク