プルートの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 22:08 UTC 版)
「プルート (機雷敷設艦)」の記事における「プルートの最期」の解説
午前7時前、ヘルソネス岬沖14 浬の地点にあったプルートは、ようやく「ゲーベン」の存在に気付いた。 プルートは、すぐさまセヴァストーポリに知らせを送り、自艦の位置北緯44度34分 東経33度1分を知らせた。しかし、セヴァストーポリから返信はなかった。巡洋戦艦は、プルートに対し警告を発した。プルートは、降伏の印に全てのマストに旗を掲げ、岸目掛けて航走を始めた。指揮官は、岸近くで安全を確保した上で艦を自沈させるつもりであった。 しかし、7時35分、巡洋戦艦はプルートの右舷に接近し、25 鏈の距離から150 mm砲で砲撃を開始した。これにより、プルートの艦上では火災が発生した。砲撃開始より10分から15分程したのち、プルートはサールィチ岬に達した。巡洋戦艦は駆逐艦サムスンとタショスを従えており、沖に留まってしばらくの間砲撃を続けた。 8時40分ごろ、プルートはいよいよ瀕死の状態となった。最終的に、プルートはフィオレント岬沖10 浬の地点で沈没した。乗員の多くは、救命用具などに摑まって無事であった。しかし、艦長を含む3 人の将校、軍医、2 人の航海士と69 人の水兵は、オスマン帝国の駆逐艦に救出されたために捕虜となった。残る3 人の将校と199 人の水兵は、バラクラーヴァより救援に駆けつけたロシアの潜水艦スダークに救出された。しかし、尉官2 人と25 人の水兵、そしてロシア正教会の司祭アントーニイは艦と運命を共にした。
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