ブギス人とオランダ勢力の抗争
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「ジョホール王国」の記事における「ブギス人とオランダ勢力の抗争」の解説
ブギス人が主導するジョホール・リアウ王国に対し、スルタン・スライマンの女婿でトルンガヌ王国のスルタンであったマンスールは、マレー人王権の復権を図って反旗をひるがえした。スルタン・マンスールは、ダエン・マレワのあとリアウの副王となったダエン・チュラク(マレー語版)が1745年に死去し、その甥にあたるダエン・カンボジャ(マレー語版)が副王位に就くと、オランダに対し、リアウからブギス人を追放するよう助力を依頼した。オランダは、監視網をかいくぐって香辛料や奴隷を運んでくるブギス人の交易活動を敵視していた。トルンガヌのマンスールは、1747年、オランダとのあいだで、協力の交換条件として、リアウの影響下にあったシアクやスランゴールなどの土地と関税免除の特権をオランダに提供する旨の相互協定をむすんだ。 これに対し、副王ダエン・カンボジャは、1754年にリアウ諸島在住のすべてのブギス人をマレー半島のリンギに移住させ、リアウの交易に大打撃をあたえた。1755年、オランダ勢力がシアク王国で親ブギス派のスルタンを追放した事件を契機として両者間で戦争が始まった。ブギス勢は、ムラカを先制攻撃して多大な損害をあたえたが、翌年に体制を立て直したオランダ軍との戦いに破れ、講和に応じざるをえなくなった。その結果、マレー半島のリンギ、クラン(セランゴール州)、ルンバウ(ヌグリ・スンビラン州)のブギス人はオランダを宗主として認め、ジョホール国王を君主としてあおぐことに同意した。スルタン・マンスールはオランダに対し、ブギス人のさらなる追放を重ねて求めたが、当時のオランダにはそのような力はなく、この要請は却下された。 オランダからの助力を得られなくなったマンスールがトルンガヌに戻ると、マレー人高官たちはダエン・カンボジャにブギス人のリアウへの復帰を求めた。ブギス人なくしては、リアウの交易は成り立たない状態となっていたからである。スルタン・スライマンの死後、アブドゥル・ジャリル・ムアッツァム・シャー(マレー語版)(1760年-1761年)とアフマド・リアヤット・シャー(マレー語版)(1761年-1762年)のスルタン2人が相次いで死去したあと、ダエン・カンボジャはスルタン・スライマンの孫で、自身の孫でもある幼少のマフムードをマフムード3世(マレー語版)として王位に就け、王国の実権を確実なものとした。
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