ブギス人とオランダ勢力の抗争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ブギス人とオランダ勢力の抗争の意味・解説 

ブギス人とオランダ勢力の抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)

ジョホール王国」の記事における「ブギス人とオランダ勢力の抗争」の解説

ブギス人主導するジョホール・リアウ王国対し、スルタン・スライマンの女婿でトルンガヌ王国スルタンであったマンスールは、マレー人王権復権図って反旗ひるがえした。スルタン・マンスールは、ダエン・マレワのあとリアウ副王となったダエン・チュラク(マレー語版)が1745年死去し、その甥にあたるダエン・カンボジャ(マレー語版)が副王位に就くと、オランダに対しリアウからブギス人追放するよう助力依頼したオランダは、監視網かいくぐって香辛料奴隷運んでくるブギス人交易活動敵視していた。トルンガヌのマンスールは、1747年オランダとのあいだで、協力交換条件として、リアウ影響にあったシアクスランゴールなどの土地関税免除特権オランダに提供する旨の相互協定むすんだ。 これに対し副王ダエン・カンボジャは、1754年リアウ諸島在住すべてのブギス人マレー半島リンギ移住させ、リアウ交易大打撃あたえた1755年オランダ勢力シアク王国で親ブギス派のスルタン追放した事件契機として両者間で戦争始まったブギス勢は、ムラカ先制攻撃して多大な損害あたえたが、翌年体制立て直したオランダ軍との戦い破れ講和応じざるをえなくなったその結果マレー半島リンギクラン(セランゴール州)、ルンバウ(ヌグリ・スンビラン州)のブギス人オランダ宗主として認めジョホール国王君主としてあおぐことに同意した。スルタン・マンスールはオランダに対しブギス人さらなる追放重ねて求めたが、当時オランダにそのような力はなく、この要請却下された。 オランダからの助力得られなくなったマンスールがトルンガヌに戻ると、マレー人高官たちはダエン・カンボジャにブギス人リアウへの復帰求めたブギス人なくしてはリアウ交易成り立たない態となっていたからである。スルタン・スライマンの死後、アブドゥル・ジャリル・ムアッツァム・シャー(マレー語版)(1760年-1761年)とアフマド・リアヤット・シャー(マレー語版)(1761年-1762年)のスルタン2人相次いで死去したあと、ダエン・カンボジャはスルタン・スライマンの孫で、自身の孫でもある幼少マフムードマフムード3世マレー語版)として王位就け王国実権確実なものとした。

※この「ブギス人とオランダ勢力の抗争」の解説は、「ジョホール王国」の解説の一部です。
「ブギス人とオランダ勢力の抗争」を含む「ジョホール王国」の記事については、「ジョホール王国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ブギス人とオランダ勢力の抗争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブギス人とオランダ勢力の抗争」の関連用語

ブギス人とオランダ勢力の抗争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブギス人とオランダ勢力の抗争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジョホール王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS