パンチャーヤト制の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/26 05:07 UTC 版)
「ジャナ・アンドラン」の記事における「パンチャーヤト制の終焉」の解説
4月15日、王立アカデミーのホールでチャンドと統一左翼戦線の話し合いが持たれた。ホールはパンチャーヤト制廃止とチャンドの辞職を要求する一万人の群集に取り巻かれた。会合を終えた首相は、国王に辞意を表明した。 4月16日朝、ビレンドラ国王は国家パンチャーヤトを解散する布告を出した。パンチャーヤト制度は廃止された。完全な勝利がようやく手に入った。 同日、国王はガネーシュ・マン・シンハに首相になるよう要請したが、シンハは断った。シンハは党首のクリシュナ・プラサード・バッタライを首相に推し、国王は彼を首相に任命した。新内閣にはネパール会議派、左翼統一戦線、そして、運動を推進した知識人の代表が入閣した。 11月9日、立憲君主制の新憲法が制定された。 それに基づいて、翌年総選挙が行われた。複数政党制による、30年ぶりの選挙である。ネパール会議派が過半数を制したが、党首のバッタライが落選したため、総書記のギリジャー・プラサード・コイララが首相となった。
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