バルバリアの奴隷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:49 UTC 版)
「アラブ人の奴隷貿易」も参照 バルバリア海賊が捕獲した船舶の貨物を略奪したのは当然として、その主目的は陸上あるいは海上で人々を捕まえ奴隷化することだった。奴隷は北アフリカで売られるか様々な方法で働かされることが多かった。 歴史家のロバート・C・デイビスは、1530年から1780年の間に100万ないし125万人のヨーロッパ人が、北アフリカの主にアルジェ、チュニス、トリポリ、さらにはイスタンブールやサレで捕虜にされ、奴隷として使われたと推計した。 捕獲されることは、奴隷の悪夢の旅の最初の部分に過ぎなかった。多くの奴隷は北アフリカに戻る長い航海の間に、病気や、食料・水の不足のために船中で死んだ。この旅を生き残った者達は、奴隷競売に向かう道で街中を歩かされ見世物になった。その後は朝の8時から昼の2時まで立ちっぱなしとなり、その間に買い手が横を通って吟味した。次が競売であり、町民が買いたいと思う奴隷を競ることになった。それが一巡するとアルジェのデイが競り落とされた価格で欲しいと思う奴隷を購入するチャンスがあった。この競売の間、奴隷たちは走ったり飛んだりしてその強さとスタミナを示す必要があった。奴隷は激しい肉体労働から家事(多くの女性に割り付けられた)まで様々な仕事に使われた。夜には「バグニオ」と呼ばれた監獄に押し込められ、その中は暑く過密だった。しかしこのバグニオは18世紀までに改善が進み、礼拝堂、病院、店、奴隷が運営するバーまであるものもあったが、通常にあるものでもなかった。
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