バラライカとの出会いからアンサンブル結成までとは? わかりやすく解説

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バラライカとの出会いからアンサンブル結成まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 03:08 UTC 版)

ワシーリー・アンドレーエフ」の記事における「バラライカとの出会いからアンサンブル結成まで」の解説

1883年自宅のあるマリイーノ農民が古いバラライカを弾くのを聴いて、これに魅せられるアンドレーエフは、楽器の構造あまりにすぎると考え、自ら図面を引き、土地指物師協力を得ながら2年がかりで改良品製作する。しかし、これに満足できず、サンクトペテルブルク音響学研究しながら、ヴァイオリン製作者V.V.イワーノフ依頼して5フレットバラライカ製作する。この結果音響面では改善できたものの、長音階の7音しか出すことができなかった。アンドレーエフはさらに改良進め1886年、F.S.パセルプスキーとの共同作業によって12フレットバラライカ製作する。これにより半音階演奏可能になった。この年の末、アンドレーエフバラライカ独奏公開演奏始めたアンドレーエフバラライカ演奏好評で、彼を中心にバラライカ演奏同好会」が生まれた仲間奏者得たアンドレーエフは、バラライカによるアンサンブル計画、各音域合わせてピッコロ、ディスキャント、アルトテノールバスコントラバスの6種類バラライカ製作する1888年3月、バラライカ・アンサンブルによる初の公開演奏を行う。曲はロシア民謡編曲であった1889年開かれたパリ万国博覧会に、アンサンブル率いて公演する。これによって、アンドレーエフフランス芸術アカデミー名誉会員選ばれレジオンドヌール勲章授与された。

※この「バラライカとの出会いからアンサンブル結成まで」の解説は、「ワシーリー・アンドレーエフ」の解説の一部です。
「バラライカとの出会いからアンサンブル結成まで」を含む「ワシーリー・アンドレーエフ」の記事については、「ワシーリー・アンドレーエフ」の概要を参照ください。

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