バラライカとの出会いからアンサンブル結成まで
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「ワシーリー・アンドレーエフ」の記事における「バラライカとの出会いからアンサンブル結成まで」の解説
1883年、自宅のあるマリイーノ村で農民が古いバラライカを弾くのを聴いて、これに魅せられる。アンドレーエフは、楽器の構造があまりに素朴すぎると考え、自ら図面を引き、土地の指物師の協力を得ながら2年がかりで改良品を製作する。しかし、これに満足できず、サンクトペテルブルクで音響学を研究しながら、ヴァイオリン製作者V.V.イワーノフに依頼して5フレットのバラライカを製作する。この結果、音響面では改善できたものの、長音階の7音しか出すことができなかった。アンドレーエフはさらに改良を進め、1886年、F.S.パセルプスキーとの共同作業によって12フレット式バラライカを製作する。これにより半音階の演奏も可能になった。この年の末、アンドレーエフはバラライカの独奏公開演奏を始めた。 アンドレーエフのバラライカ演奏は好評で、彼を中心に「バラライカ演奏同好会」が生まれた。仲間の奏者を得たアンドレーエフは、バラライカによるアンサンブルを計画、各音域に合わせて、ピッコロ、ディスキャント、アルト、テノール、バス、コントラバスの6種類のバラライカを製作する。1888年3月、バラライカ・アンサンブルによる初の公開演奏を行う。曲はロシア民謡の編曲であった。 1889年に開かれたパリ万国博覧会に、アンサンブルを率いて公演する。これによって、アンドレーエフはフランス芸術アカデミーの名誉会員に選ばれ、レジオンドヌール勲章を授与された。
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