バブル崩壊後の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 17:09 UTC 版)
しかし、1990年代前半のバブル景気の崩壊で販売台数は下降線をたどり、さらに地球環境対策でリサイクルシステムの構築と推進に巨額の費用を投じなければならず、当時日産自動車の社長であった辻義文は、生き残りの為にコスト削減への路線変更を強力に推し進めることとなり、901運動を終了せざるを得なくなった。しかし、技術力や商品力の低下と言った代償を避けることが出来ず、販売台数はさらに下降線をたどり、日産が経営危機に陥るまでの事態となってしまう。2002年(平成14年)にルノーから派遣されてきた、カルロス・ゴーンがリバイバルプランを達成するまで、日産は不遇の時代を迎える事となった。 このような経緯で901運動は終わりを告げたが、品質向上運動そのものは当時日産と提携して資本参加も行っていた富士重工(現・SUBARU)に受け継がれ、同社製乗用車の品質向上に大きく貢献した。
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