バサラブの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:10 UTC 版)
13世紀半ばより、後のワラキアに相当する地域にハンガリー王の臣下であるヴォイヴォドの領地が形成されるが、間も無くヴォイヴォドたちはハンガリー王権からの独立を求めるようになる。ワラキア統一の動きは、1277年にヴォイヴォド・リトヴォイ(英語版)がハンガリーに対して起こした反乱から始まるが、リトヴォイはハンガリー軍に敗れ戦死した。 アールパード朝の末期にハンガリーは政治的な危機を迎え、東欧で強勢を誇ったモンゴル系国家のジョチ・ウルスも13世紀末になるとカルパティア山脈とドナウ川における支配力が低下していた。こうした状況の中、ワラキアはカルパティア山麓一帯での自治権を強化し、徐々にドナウ平野に支配力を広げていった。カルパティア山脈南部の封建地主たちは、アルジェシュ地方のバサラブを自分たちの指導者として擁立した。 1320年ごろ、バサラブはオルテニア、ムンテニアの統一を達成する。ドナウ河口の港町キリア(英語版)にまで支配を広げ、ドナウ河口の地域はバサラビア(ベッサラビア)と呼ばれるようになる。 1325年から1328年にかけての期間、バサラブはジョチ・ウルスとの戦闘で数度の勝利を収めた。
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