ハンの擁立者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 06:37 UTC 版)
「ママイ (キヤト部)」の記事における「ハンの擁立者」の解説
1350年代の末期、ママイは後のクリミア・ハン国の支配領域となる地域を領有していた。ベルディ・ベク・ハンの在位中、ママイは国家の軍事・外交・裁判を司る万人隊長(ベイレルベイ)の地位に就いた。 1359年にベルディ・ベクがクルナによって暗殺された後、ママイはクルパと敵対する党派に加わった。ベルディ・ベクの死後に混乱期に入ったジョチ・ウルスでは、多くの王族がハーンの地位を争い、クルナは即位から6か月も経たずにナウルーズによって暗殺された。 ママイはチンギス・カンの血を直接引いていなかったが、ハンの擁立に強い影響力を有しており、ウズベク・ハンの末裔であるアブドゥッラーを初めとする多数の王族をハンに擁立した。ジョチ・ウルスはヴォルガ川を境に東西に分裂、ママイはヴォルガ以西のキプチャク草原、クリミア半島を支配し、東の白帳ハン国の指導者オロスと敵対した。ママイとアブドゥッラーは一時的に首都のサライを制圧し、ヒジュラ暦768年(1366年/67年)にアブドゥッラーの名前を刻んだ貨幣がサライで鋳造された。 ルーシ諸侯もママイの権威を認め、1371年にモスクワ公ドミートリーがウラジーミル大公位を得るためにママイの元に赴いた際、ドミートリーはハンよりも先にママイに向かって敬意を表した。
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