ハスキルとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 外国人名の読み方 > ハスキルの意味・解説 

ハスキル

名前 Haskil; Haskell

クララ・ハスキル

(ハスキル から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/04 02:31 UTC 版)

クララ・ハスキル
Clara Haskil
1925年以前
基本情報
生誕 1895年1月7日
ルーマニア王国 ブカレスト
死没 (1960-12-07) 1960年12月7日(65歳没)
ベルギー ブリュッセル
ジャンル クラシック音楽
古典派音楽
ロマン派音楽
室内楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

クララ・ハスキルClara Haskil, 1895年1月7日 - 1960年12月7日)は、ルーマニア王国 (現:ルーマニア)出身のピアニスト古典派初期ロマン派のレパートリーで名高く、とりわけモーツァルト作品の録音と演奏で著名。ほかにスカルラッティベートーヴェンシューマンの解釈にも卓越したものがある。室内楽奏者としても活躍し、ジョルジュ・エネスコウジェーヌ・イザイパブロ・カザルスと共演した。とりわけアルテュール・グリュミオーの共演者として名高い。

生涯

ブカレストに生まれ、4歳で父を亡くす。ウィーンでリヒャルト・ローベルトに師事。同門の後輩にルドルフ・ゼルキンジョージ・セルらがいた[1]。その後に短期間フェルッチョ・ブゾーニにも師事している。

10歳でパリ音楽院に入学。公式にはアルフレッド・コルトーに入門したことになっているが、実際にはほとんどの指導をラザール・レヴィやジロー=ルタルズ夫人から受けた。コルトーは他の弟子の前で、クララを「次の回に君の演奏は聞こう」といって追い返したり、「家政婦が演奏しているようだ」とまでいったりして、事実上同僚のレヴィにクララの教育を委ねた[2]

15歳で最優秀賞を得て卒業し、間もなくヨーロッパ各地を演奏旅行した。1913年に、脊柱側弯の徴候の機先を制するべくギプスをはめるようになる。頻繁な病気に加えて、1920年には舞台負けが極端になり、好意的な批評を受けられず経済的にも失敗する[3]

当初はフランスを活動の拠点としていたが、ユダヤ系であったため、ヴィシー政府におけるナチス・ドイツ軍の跳梁跋扈を避けてスイスに出国。戦後もスイスとオランダを拠点とするようになった。生涯の大半を清貧のうちに過ごし、正当な評価を勝ち得るようになったのは、ようやく第二次世界大戦後、1949年オランダにおける一連の演奏会を通じてであった[3]

1950年代から脚光を浴び始める。カラヤンを始めとする著名な指揮者や、またカザルスチャップリンとの交友にも恵まれ、フランスを始めとするヨーロッパ諸国での演奏活動も、熱狂的な聴衆に支持されるようになった。しかし、生まれつき虚弱体質であり、社交的な性格でもなかったため、他の同時代の演奏家に比べて活動が活発だったとはいえない[独自研究?]

ピアニストとしては、純粋な音色や、ハスキル自身のヴァイオリンの演奏経験に由来するというフレージングに特徴がある[3]

彼女は自分の演奏会のチケットを同封した手紙を、師コルトーへ何度も送って来場を請うたが、コルトーは一度も会場に足を運ばなかった。妹弟子の遠山慶子がコルトーに、なぜクララのコンサートに行かず、そのくせ弟子たちには行ってきてその感想を伝えてくれと言うのか、その理由を問うと、コルトーはクララに明かさぬよう遠山に約束させた上でこう答えた。

「クララに必要なことは放っておくことだ。どのような人にどのように教えるべきかを発見するのが教師にとって一番むずかしいことだ。クララは、バランスがとれないような、孤独な時にもっとも素晴らしいものを生み出す才能がある。生涯満足をさせないことが彼女を生かす道なのだ。[4]

またクララはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番だけは決して演奏会でとりあげなかった。遠山に尋ねられたクララは、2つの理由を明かした。1つ目は、若くして亡くなった弟弟子のディヌ・リパッティがあまりに完璧に弾いたからだと。そして2つ目についてはこう答えた。

「コルトーが私にはあの曲は弾けないと言ったのよ。私みたいに、死ぬほど人の前で弾くのが怖い人には。[4]

クララは、ブリュッセルの駅で転落した際に負った怪我がもとで急死した。その翌日にグリュミオーと演奏会で共演することになっていた。意識を失って病院に担ぎ込まれたハスキルは医師の懸命の治療で短時間意識を回復し、パリから呼び出された妹たちに、翌日グリュミオーと演奏できないことを詫びるように伝え、さらに弱々しく彼女の手を上げて、「少なくとも、手だけは守って無事だったわ」と、微笑を浮かべて囁いた[5]

亡骸はパリモンパルナスに埋葬されている。

師コルトーがハスキルの死を悼んだメッセージの録音が残されている。

スイスでは遺功を偲んで、1963年より「クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール」が開かれている。

友人で「エターナリー」等の作曲家でもあったチャップリンは、彼女についてこう述べている。

「自分は人生で3人の天才に会った。ウィンストン・チャーチルアインシュタイン教授、クララ・ハスキルの3人である。正規の教育を受けた音楽家ではない私だがこれだけはいえる。彼女のタッチは絶妙で、表現は素晴らしく、テクニックは並外れていたと。[6]

脚注

  1. ^ http://www.bach-cantatas.com/Bio/Haskil-Clara.htm  http://www.peter-feuchtwanger.de/english-version/clara-haskil/the-perfect-clara-haskil/index.html
  2. ^ fr:Clara Haskil
  3. ^ a b c http://www.bach-cantatas.com/Bio/Haskil-Clara.htm
  4. ^ a b 加賀乙彦・遠山慶子『光と風のなかで 愛と音楽の軌跡』弥生書房、1993年
  5. ^ http://www.peter-feuchtwanger.de/english-version/clara-haskil/the-perfect-clara-haskil/index.html
  6. ^ en:Clara Haskil

参考文献

  • Spycket, Jerôme "Clara Haskil", Payot (1992). ISBN 2228884677
  • 加賀乙彦・遠山慶子『光と風のなかで 愛と音楽の軌跡』弥生書房、1993年、ISBN 4-8415-0676-4

外部リンク


ハスキル (Haskill)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 00:32 UTC 版)

The Elder Scrolls IV: オブリビオン」の記事における「ハスキル (Haskill)」の解説

シェオゴラス仕え執事

※この「ハスキル (Haskill)」の解説は、「The Elder Scrolls IV: オブリビオン」の解説の一部です。
「ハスキル (Haskill)」を含む「The Elder Scrolls IV: オブリビオン」の記事については、「The Elder Scrolls IV: オブリビオン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ハスキル」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハスキル」の関連用語

ハスキルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハスキルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのクララ・ハスキル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、WikipediaのThe Elder Scrolls IV: オブリビオン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS