ドレイシー家とポンテフラクト城
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「ポンテフラクト」の記事における「ドレイシー家とポンテフラクト城」の解説
1640年頃のポンテフラクト城 ポンテフラクト城と町の古地図 内戦で破壊された教会 現存する城壁 征服王ウィリアムは、北部の反乱者たちを根絶やしにしたのち、家臣たちに領地として分け与えた。その中の一人、イルバート・ドレイシー(Ilbert de Lacy)がタンシェルフの領主になり、城を建てた。 このポンテフラクト城は1086年以前の初期には木造だったが、のちに石造りで改築された。ドレイシー家は1067年の築城から1348年に4代リンカーン女伯爵アリス・ドレイシー(Alice de Lacy)の死によってドレイシー家が断絶するまで、2世紀以上に渡ってポンテフラクト城の城主として支配した。 ポンテフラクト城は、薔薇戦争で知られるリチャード2世王の最後の地として知られている。リチャード2世は1400年にポンテフラクト城で死んだが、その詳しい事情は判っていない。一般には、シェイクスピアの史劇『リチャード二世』によって伝えられているのだが、おそらく真相はシェイクスピアによって脚色されていると考えられている。リチャード2世の最期には、少なくとも3種類の説がある。幽閉されて餓死させられたという説、自害したという説、1399年か1400年の2月14日にエクストン卿(Sir Piers (Peter) Exton)に殺されたとする説である。 エリザベス朝時代には、ポンテフラクトの町やポンテフラクト城は「ポンフレット(Pomfret)」と呼ばれていた。シェイクスピアの『リチャード三世』や『リチャード二世』にはこの城のことが出てくる。
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