ドライ湖の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:52 UTC 版)
5月10日の夜明け、モードック族はドライ湖の米軍宿営地を攻撃した。米軍が突撃し、モードック族を壊走させた。米軍の損失としては、5名が戦死、そのうち2名はウォームスプリング族インディアンの斥候であり、12名が負傷した。モードック族は5名の戦士が殺されたと記録された。この5名の中にモードック族の中でも著名な戦士、エレンズマンが居た。モードック族にとって初めての敗北だった。エレンズマンの死によってモードック族の中に不和が生じ、分裂を始めた。フッカー・ジムらのモードック族の一団が米軍に投降し、キャプテン・ジャックの捕縛への協力に同意し、その見返りにチュール湖畔での白人入植者の殺害とキャンビー将軍ら委員に対する殺害の件を不問とする条件を米軍に呑ませた。 1873年6月1日、キャプテン・ジャックことキエントプース酋長は、ランゲル渓谷で米軍に降伏、投降した。彼はキャンビー将軍から剥がした軍服を身に着けていた。
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