ドイツ騎士団からポーランド・リトアニア共和国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 03:43 UTC 版)
「ポメレリア」の記事における「ドイツ騎士団からポーランド・リトアニア共和国へ」の解説
子のないムシチュイ2世は、1282年にケンプノの和約によってヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世を後継者に指名し、プシェミスウ2世を共同統治者としていた。1294年のムシチュイ2世の死後、ケンプノの和約をもとにポメレリアの相続権を主張するプシェミスウ2世と、アルンスヴァルデの和約をもとにポメレリアの宗主権と継承権を主張するブランデンブルク辺境伯が対立した。 プシェミスウ2世はポーランド王にも即位したものの間もなく没し(1296年)、ポーランド王の座はボヘミア王ヴァーツラフ2世が継いだ。神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世とヴァーツラフ2世は、ヴィエルコポルスカとポメレリアはヴァーツラフ2世が領有し、ただしそれらに対するアルブレヒト1世の宗主権を認めるという合意を行い、1300年にヴァーツラフ2世はマインツでアルブレヒト1世より王冠を受けてポーランド王ヴァツワフ2世として即位した。 ヴァツワフ2世が死に、さらに1306年にその子ヴァツワフ3世が死んでプシェミスル朝が断絶し、ポメレリアはポーランド王ヴワディスワフ1世が征服した。しかし在地の領主やブランデンブルク出身のドイツ人が抵抗したほか、ブランデンブルク辺境伯もいまだポメレリアに対する主張を続けていた。1308年、ヴワディスワフ1世はプロシアのドイツ騎士団に協力を呼び掛け、ポメレリアに侵攻したブランデンブルク軍を撃退させた。だがドイツ騎士団は、軍事協力に対しての支払いをヴワディスワフ1世が拒んだことを理由に、1309年にグダンスクを占領し、同年のソルディン条約では、法的にブランデンブルク辺境伯からポメレリアを買い取るという形でドイツ騎士団国への併合となる。 1466年にプロイセン連合がドイツ騎士団に勝利した第二次トルンの和約の際に、ポメレリアおよび西プロイセンはポーランド王領プロシアへと再編され、ポーランド・リトアニア共和国の一部となった。1569年のルブリン合同以降はそれまで大幅に与えられていた自治権が制限され、一般の地方自治体となった。この状態は1772年の第一次ポーランド分割まで続いた。
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