テオドール・デーラーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > テオドール・デーラーの意味・解説 

テオドール・デーラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:03 UTC 版)

テオドール・デーラー
Theodor Döhler
Sophus Williams作
基本情報
生誕 1814年4月20日
イタリア ナポリ
死没 (1856-02-21) 1856年2月21日(41歳没)
イタリア フィレンツェ
ジャンル クラシック
職業 ピアニスト作曲家

テオドール・デーラー(Theodor Döhler, 1814年4月20日 - 1856年2月21日)は、ドイツピアニスト作曲家

ジュリアス・ベネディクトカール・チェルニージーモン・ゼヒターに師事し、ロマン派ヴィルトゥオーゾピアニストとして名をはせた[1]

生涯

デーラーはナポリで生まれた。彼の父(1843年ルッカで没)がそこに住み、カペルマイスターを務めていたからである。神童であったデーラーはこの地で指揮者のジュリアス・ベネディクトから最初の音楽教育を受けた。デーラーがナポリで公開演奏会をするようになったのは13歳の時である。

1827年、デーラーは父がルッカで働くことになったため、共にそこへ移り住んだ。1829年から1834年にはウィーンに居を構え、チェルニーの下でピアノを学び、同時期にジーモン・ゼヒターから作曲の指導を受けていた。次に彼の足取りが分かるのは1838年リストがウィーンに、タールベルクが再びパリにいた時である[2]1832年に、デーラーはルッカ公国の援助を受けることができるようになった。1834年から1845年にはコンサートピアニストとしてヨーロッパを旅して周り、イタリアフランスオランダデンマークポーランド、ロシアで演奏を行った。彼はピアニストとして非常に成功し、人気を博したヴィルトゥオーゾであったと考えられている[3]

1846年、デーラーを援助していたルッカ公国が彼に男爵の地位を与えた。貴族の一員となったデーラーは、その年にロシアの王女であるエリーゼ・シェレメテフ(Elise Sheremeteff)婦人と結婚することができた。これにともなって、デーラーは公開演奏から引退してしばらくの間モスクワに落ち着く。1848年にはナポリへと戻り、そこでピアノ小品やオペラ「Tancreda」を作曲した。このオペラが初演されたのは、1856年フィレンツェでの彼の死から24年後の、1880年のことであった。

主要作品

  • ノクターン Op. 24
  • ノクターン第1番 ハ長調 Op. 25
  • タランテラ Op. 39
  • ピアノ左手のためのアンダンテ第33番 Op. 42
  • 歌詞のないロマンス

出典

外部リンク





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テオドール・デーラー」の関連用語

テオドール・デーラーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テオドール・デーラーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテオドール・デーラー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS