チャドとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:04 UTC 版)
「ハリファ・ハフタル」の記事における「チャドとの戦争」の解説
1986年の時点でハフタルは大佐となっており、チャド・リビア紛争においては、チャドに送られたリビア軍の総司令官となった。このとき、リビア軍の大部分は、捕虜とされるか、国境線まで押し戻されることになったが、1987年のウアディ・ドゥム空襲(英語版)における敗退後、ハフタルは配下の600人ないし700人ほどの兵士たちとともに捕虜となった。惨憺たる結果となった戦いの後、カダフィは、ハフタルをはじめ、チャドの捕虜となったリビア軍の兵士たちの存在を認めることを拒んだ。ある見方によると、カダフィがハフタルを見放した理由のひとつは、カダフィが、チャド領内からリビア軍の全軍を撤退させるとの合意書にいち早く署名していたにも関わらず、この合意に反してハフタルがチャド領内で捕虜となったためだったのではないかともいわれている。それとは別に、カダフィがハフタルを見捨てたのは、ハフタルがリビアに「英雄」として凱旋帰国すれば、カダフィの支配体制にとっても脅威となったかもしれないという可能性も指摘されている。いずれにせよ、カダフィの拒絶によって、カダフィに対するハフタルの思いが苦々しいものに転じたことは間違いない。 1986年から1987年にかけて、チャド政府は、中央政府軍や反乱軍に対し、リビアが毒ガスやナパーム弾を使用したと非難した。リビア軍は、1987年9月、チャドとの戦争の最終局面において、An-26でマスタードガスを仕込んだ爆弾を投下した可能性がある。風向きがリビア軍の方に吹き返し、ガスはリビア軍に返ってきた。
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