チェコスロバキア代表の最後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/06 08:43 UTC 版)
「サッカーチェコスロバキア代表」の記事における「チェコスロバキア代表の最後」の解説
76年の欧州選手権の後、チェコスロバキア代表は徐々に下降線をたどる事になった。モスクワオリンピックでは金メダルを獲得したものの、この大会は西側諸国の多くがボイコットした大会で、キューバなどサッカー後進国などが混ざっていたトーナメントの結果獲得したメダルとあっては、その金色も色あせるような大会の内容であった。 1980年代に入ると、西欧諸国と肩を並べて選手権を争うのは段々と難しくなっていった。1989年11月のビロード革命で民主化したチェコスロバキアでは、連邦政府からチェコ共和国(旧チェコ社会主義共和国)およびスロバキア共和国(旧スロバキア社会主義共和国)への権限委譲が急速に進められた。さらに経済政策面から連邦制の解消を目指す政党がチェコ、スロバキア両国で第1党となった結果、1992年7月に連邦制解消が合意され、1993年1月1日の連邦制解消を定めた連邦制解消法が1992年11月にチェコスロバキア連邦議会で可決成立した。 このため、連邦制解消前に1994年のワールドカップ欧州予選にエントリーしたチェコスロバキア代表は「RČS」チーム(Reprezentace Česka a Slovenska, チェコおよびスロバキア代表)として出場した。RČSチームは1993年11月17日の対ベルギー戦で勝利すればグループリーグ2位に入り、ワールドカップに出場する事ができたが、0-0のドローで終わり、最後のワールドカップ出場には至らなかった。
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