セバストポリスの敗北とレオンティオスのクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 06:20 UTC 版)
「ユスティニアノス2世」の記事における「セバストポリスの敗北とレオンティオスのクーデター」の解説
ユスティニアノスは2世はその後、ウマイア朝に対する軍事行動を起こす。そしてコンスタンス2世時代以来の戦略を変更してウマイヤ朝との直接対決を指向した。だが692年のセバストポリスの戦いでは、スラブ人部隊が寝返ったこともあって惨敗する。これ以降再び小アジアへのイスラームの攻撃が激化した。ユスティニアノス2世はこのような連年の遠征の軍費を調達するため重税を強いたほか、ユスティニアヌス1世にならって建築活動を起し、人々にとって大きな負担となった。加えて宦官で財務長官でもあるペルシアのステファノスの専横も目立っていた。こうした状況を利用して、695年に新設テマであるテマ・ヘラス(ギリシア語版、英語版)の長官に任じられた(それまでは投獄されていた)軍人・レオンティオスがサーカス党派の支援を受けてクーデターを起こした。ユスティニアノス2世は捕らえられ、鼻を削がれた上でクリミア半島のケルソンへ追放された。
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