セイディ・アリ・レイースによる遠征(1553年)
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「オスマン帝国のインド洋遠征」の記事における「セイディ・アリ・レイースによる遠征(1553年)」の解説
ムラト・レイースの失敗を受け、同年のうちにセイディ・アリ・レイースが後任についた。彼はバスラで放棄されたも同然の状態のガレー船を修理した後に出航し、ホルムズ海峡からオマーンへ抜ける過程でポルトガル艦隊と2度遭遇戦を行い、さらに地元の住民から「象嵐」(tufan’ı fil)と呼ばれる強烈なサイクロンにも襲われた。オマーン湾の海戦でポルトガル艦隊に惨敗を喫したセイディ・アリ・レイースは命からがらグジャラートまで逃げたが、その船団はわずか6隻にまで減ってしまった。彼らはインド艦隊の15年来の目的地であったインドにたどり着いたとはいえ、もはや艦船は使い物にならなくなっていたため、セイディ・アリ・レイースは50人の生存者とともに陸路でイスタンブルへ帰ることにした。途中で彼らはデリーに立ち寄り、ムガル帝国を再興したばかりのフマーユーンと、その子で12歳のアクバルに謁見している。 オスマン帝国とサファヴィー朝が戦争中だったため、インドからトルコへの帰還は極めて困難と思われたが、1555年にアマスィヤの講和が成立し停戦したことで、ようやくセイディ・アリ・レイースらは帰還を果たすことができた。彼は国々の鏡 (Mir’at ül Memalik) という旅行記を著し、1557年にスレイマン1世に献じた。これはトルコ文学におけるもっとも古い旅行記の一つとされている。
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