ズラティツァの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 06:45 UTC 版)
「ヴァルナ十字軍」の記事における「ズラティツァの戦い」の解説
1443年末の冬は厳しいものとなった。1443年12月12日にズラティツァ峠で両軍が衝突したときには雪が降っていた。アドリアノープルに向かっていた十字軍は、これまで小規模な都市守備隊としか戦ってこなかったが、ズラティツァの戦いではついに強力で迎撃態勢を整えたオスマン本軍に遭遇したのである。この戦いで十字軍は一旦敗北するが、撤退すると見せかけて夜襲をかける戦術により、1444年1月2日(または5日)のクノヴィツァの戦いでオスマンの追撃軍を破った。ここでムラト2世の義理の息子で大宰相チャンダルル・ハリル・パシャの弟マフムード・ベイが捕虜となった。4日後、十字軍はプロクプリェに入った。ブランコヴィチはウラースロー1世やフニャディに、この要塞都市で冬を過ごしたのち遠征を継続するよう求めたが、この案は却下され十字軍は撤退を始めた。彼らは1月末までにベオグラード、2月にはブダまで帰還し、英雄として讃えられた。王や教会はクノヴィツァでの勝利を喧伝したが、ズラティツァの戦いでの敗北については誰も触れなかった。 ムラト2世は自軍に対する怒りと落胆と共に帰還し、トゥラハン・ベイに兵の後退やマフムード・ベイ虜囚の責任を負わせて投獄した。
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