ジーコジャパン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:18 UTC 版)
2003~2005年日本代表選出。アジアカップ優勝時まで試合に出場したのは約8分間であり、ほぼ控えに回っていた。アジアカップで優勝したが、貢献できなかった自分を悔やみ優勝メダルをスタッフにあげてしまうほどであった。2006 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の初戦北朝鮮戦(2005年2月9日)でレギュラーDFの田中誠が一次予選からの累積2枚目となる警告を受け、出場停止の状況で迎えた第2戦のアウェーのイラン戦(2005年3月25日)で、中田英寿、中村俊輔、小野伸二が久しぶりに揃った事もあり、ジーコはCBを減らしMFを増やす4-4-2フォーメーションで臨む。記者から「黄金の中盤の起用は理想を追い過ぎでは?」と問われたジーコは、「イラン戦で4-4-2にしたのは、田中が出場停止だったからだ。それがなければ変えるつもりはなかった」と発言。松田はそれに対し、自分達控えDFが信頼できないのかと不満を露にし、さらに続く第3戦であるバーレーン戦(2005年3月30日)でベンチ外が決まると、スタンドでの観戦が規則であったにも関わらず試合前に無断帰宅。その後謝罪の手紙を送ったが、以降代表招集されることは無かった。 国際Aマッチ通算40試合出場、1得点。
※この「ジーコジャパン時代」の解説は、「松田直樹」の解説の一部です。
「ジーコジャパン時代」を含む「松田直樹」の記事については、「松田直樹」の概要を参照ください。
- ジーコジャパン時代のページへのリンク