ジョージ・H・W・ブッシュ大統領代行(1985年)
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「アメリカ合衆国憲法修正第25条」の記事における「ジョージ・H・W・ブッシュ大統領代行(1985年)」の解説
1985年7月12日、ロナルド・レーガン大統領は大腸内視鏡検査を受け、その時に絨毛腺腫と呼ばれる前癌性病巣が発見された。医者(エドワード・カトー博士)による、即座にあるいは2,3週間以内に手術を受けられるという告知に対応して、レーガンはそれを直ぐに除去することを選んだ。 レーガンはその午後、大統領法律顧問フレッド・フィールディングに電話で相談し、修正条項を発動すべきか、もし発動するとすれば、そのような権限委譲は望ましくない前例とならないかを議論した。フィールディングと大統領首席補佐官のドナルド・リーガンは2人共にレーガンに権限委譲を推奨し、そうするための2通の文書が起草された。最初の原稿は具体的に修正第25条第3節に言及し、2通目はそうしないものだった。 7月13日午前10時32分、レーガンは2通目の文書に署名し、修正条項に要求される適切な役職者に届けられるよう命令した。その文書において、いくつかの言葉の混乱と、レーガンが修正条項の第3節に具体的に言及していなかったために、憲法学者の中にはレーガンが実際にはブッシュに権限委譲しなかったと主張する者がいる。 しかし、ハーバート・アブラムズの著作『大統領が撃たれた:混乱、能力障害および修正第25条』やレーガンの自叙伝『アメリカン・ライフ』では、レーガンがブッシュに権限委譲するつもりだったことは明らかである。フィールディング自身も、「私自身、レーガンが修正条項を発動する意図だったことを知っており、レーガンはそのスタッフの全員に意図を伝え、それが副大統領や上院議長にも伝えられた。レーガンはその後継者を束縛する前例をつくろうとは思っていなかったことも確かである。」と付け加えた。
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