ジョン・ハーシー『ヒロシマ』
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「谷本清」の記事における「ジョン・ハーシー『ヒロシマ』」の解説
広島に戻ってきた谷本は、教会の復興に奔走した。その最中、1946年5月に、ピューリッツァー賞作家でもあるジャーナリストジョン・ハーシーがアメリカ合衆国から来て広島を訪れ、原爆被害の様子を取材した。ハーシーのルポ『ヒロシマ』は、当初、雑誌『ザ・ニューヨーカー』にて4回に分け連載される予定であったが、雑誌まるごと「ヒロシマ」に割くと言う異例の形で発行され、即日30万部を売り切るという大反響を呼んだ。谷本は取材を受けた6人の被爆者の中の1人であった。 教会再建のめどがつかず苦慮していた谷本のもとに、この年の秋から、『ヒロシマ』で谷本のことを知った人々から、メソジスト教会を経由し、あるいは個人として直接に、援助の物資や寄付金が届くようになった。もっとも、郵便事情の悪さから、返送されて広島に届かなかったものも多かったという。 『ヒロシマ』の反響をうけて日本語訳の話が持ち上がり、渡米直前の谷本が1948年に訳稿を仕上げた。これを石川欣一が修正して、1949年に法政大学出版局が刊行した。
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