ジョン・グラッドストン (初代准男爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジョン・グラッドストン (初代准男爵)の意味・解説 

ジョン・グラッドストン (初代准男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 23:58 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
初代准男爵
サー・ジョン・グラッドストン
Sir John Gladstone, 1st Baronet
1843年から1848年
生年月日 1764年12月11日
出生地 グレートブリテン王国 スコットランドミッドロージアンリーチ英語版
没年月日 (1851-12-07) 1851年12月7日(86歳没)
所属政党 ホイッグ党トーリー党
称号 初代准男爵
親族 第2代准男爵サー・トマス英語版 (長男)
ロバートソン英語版 (次男)
ジョン・ネイルソン英語版(三男)
ウィリアム(四男)

庶民院議員
選挙区 ランカスター選挙区英語版
ウッドストック選挙区英語版
ベリック・アポン・ツイード選挙区英語版[1]
在任期間 1818年7月1日 - 1820年3月10日
1820年3月7日 - 1826年6月10日
1826年6月21日 - 1827年3月29日[1]
テンプレートを表示

初代准男爵サー・ジョン・グラッドストン英語: Sir John Gladstone, 1st Baronet, FRSE1764年12月11日 - 1851年12月7日)は、イギリスの政治家、貿易商、黒人奴隷農場主。

首相ウィリアム・グラッドストンの父にあたる。

経歴

1764年12月11日、穀物商トマス・グラッドストンス(Thomas Gladstones)とその妻ヘレン(旧姓ネイルソン)の長男としてスコットランドミッドロージアンリーチ英語版で生まれる[2][3]

若年の頃から父の事業を手伝い、それによって一定の蓄財をすると、イングランドリヴァプールへ移住して友人たちとともに穀物貿易の商会を創設した[4]。友人たちとの共同事業期間が満了すると、以降は単独事業を行った[5][6]

1792年以降、イギリスはフランスと二十数年に渡る戦争に突入したが(フランス革命戦争ナポレオン戦争)、これによって貿易は賭博的事業となり、貿易商は極端に成功する者と極端に失敗する者の二極分化した。グラッドストンスは成功者の側に入った[6]

彼ははじめは東インドでの貿易を主としていたが、後には西インド貿易にも手を伸ばした。また西インド、英領ギアナ、英領ジャマイカなどにおいて広大なサツマイモ耕地、コーヒー耕地を所有した。イギリス本国においては奴隷貿易は1807年に禁止されたが、大英帝国植民地においては奴隷貿易は未だ合法であり、グラッドストンスも大量の黒人奴隷を自身の農地で酷使した[7][6]1823年にはギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストンス所有の農場だった[8][9][注釈 1]

やがてリヴァプールでも最大の名士の一人となり[10]1818年から1820年にかけてランカスター選挙区英語版、1820年から1826年にかけてウッドストック選挙区英語版、1826年から1827年にかけてはベリック・アポン・ツイード選挙区英語版から選出され、庶民院議員も務めた[1][11]

グラッドストンスはもともと非国教徒長老派であり、支持政党は自由主義政党ホイッグ党だったが、後に国教会福音派(比較的長老派と教義が近い)に改宗するとともに、党派も保守政党トーリー党になった。だがトーリー党内では自由主義派に属しており、カトリックが公職に就くことを認める改革や商業における規制を撤廃する改革を目指すジョージ・カニングを支持し、カニングのリヴァプール選挙区英語版での選挙活動を支援していた[12]。しかし政治家としては批評に上るほどの人物ではなく、議員辞職後には政界から退いた[13]

1835年には姓の最後の"s"が語呂が悪いと感じて、勅許を得てグラッドストン(Gladstone)に改名している[4][2]

1846年7月18日准男爵の称号を与えられた[2]1851年12月7日、87歳の誕生日を目前にして死去した[2]

栄典

1846年7月18日に以下の準男爵位に叙せられた[2]

家族

1791年にジェーン・ホールと結婚したが、子供の出来ないまま1798年に死別した[2][4]。ついで1800年にアン・マッケンジー・ロバートソンと再婚し、彼女との間に以下の5子を儲ける[2]

  • 第1子(長女)アン・マッケンジー・グラッドストン(1802-1829)
  • 第2子(長男)サー・トマス・グラッドストン英語版(1804-1889)- 第2代准男爵を継承
  • 第3子(次男)ロバートソン・グラッドストン英語版(1805-1875)
  • 第4子(三男)ジョン・ネイルソン・グラッドストン英語版(1807-1863)
  • 第5子(四男)ウィリアム・エワート・グラッドストン(1809-1898)- 英国首相
  • 第6子(次女)ヘレン・ジェーン・グラッドストン(1814-1880)

グラッドストンは資本主義の競争に勝ち抜いた中産階級に典型的な合理主義者・経験主義者であったため、子供たちに対し、どんな些細なことでも慣れ合いで決めずに自由な討論をもって決するよう教育したという。後に首相となる四男ウィリアムは父のその教育方針のおかげで議論好きになったという[14]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ この暴動は官憲によって徹底的に鎮圧され、複数の黒人が拷問の末に殺された。また暴動に協力したとされた白人宣教師ジョン・スミスも拷問の末に殺されたが、後にスミスは冤罪であることが判明し、グラッドストンスは庶民院でホイッグ党から追及を受けた。それに対してグラッドストンは「スミスは革命家のように行動してるからああなったのだ。奴隷制度は有史以来存在するものであり、場所によっては神が認めているものだ。植民地の奴隷のことなどより本国の下層階級の者の生活改善を考える方が大事である」と答弁している[8]

出典

  1. ^ a b c UK Parliament. “Mr John Gladstone” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Sir John Gladstone, 1st Bt.” (英語). thepeerage.com. 2014年6月7日閲覧。
  3. ^ 永井(1929) p.4
  4. ^ a b c 永井(1929) p.5
  5. ^ 永井(1929) p.5-6
  6. ^ a b c 神川(2011) p.21
  7. ^ 永井(1929) p.9-10
  8. ^ a b 尾鍋(1984) p.14
  9. ^ 永井(1929) p.9-10
  10. ^ 永井(1929) p.7
  11. ^ 永井(1929) p.7-8
  12. ^ 神川(2011) p.22-23
  13. ^ 永井(1929) p.8
  14. ^ 神川(2011) p.27

参考文献

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代:
ジョン・フェントン=コーソーン英語版
ガブリエル・ダブトン
ランカスター選挙区英語版選出庶民院議員
1818年 - 1820年
ガブリエル・ダブトン
次代:
ジョン・フェントン=コーソーン英語版
先代:
サー・ヘンリー・ダッシュウッド准男爵
ロバート・スペンサー卿
ウッドストック選挙区英語版選出庶民院議員
1820年 - 1826年
ジェームズ・ホートン・ラングストン英語版
次代:
ブランドフォード侯爵
アシュレイ卿
先代:
サー・フランシス・ブレーク准男爵英語版
サー・ジョン・ベレスフォード准男爵英語版
ベリック・アポン・ツイード選挙区英語版選出庶民院議員
1826年 - 1827年
マーカス・ベレスフォード英語版
次代:
サー・フランシス・ブレーク准男爵英語版
マーカス・ベレスフォード英語版
イギリスの準男爵
爵位創設 (ファスクの)初代準男爵
1846年 - 1851年
次代:
サー・トマス・グラッドストン英語版



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジョン・グラッドストン (初代准男爵)」の関連用語

ジョン・グラッドストン (初代准男爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジョン・グラッドストン (初代准男爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョン・グラッドストン (初代准男爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS