ジェムデト・ナスルとは? わかりやすく解説

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ジェムデト・ナスル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/18 17:20 UTC 版)

ジェムデト・ナスル
イラクにおける位置
ジェムデト・ナスル (近東)
所在地 イラク
地域 バービル県
座標 北緯32度43分04秒 東経44度46分46秒 / 北緯32.717781度 東経44.779439度 / 32.717781; 44.779439
種類 遺丘遺跡標式遺跡
面積 1.5 ヘクタール7.5 ヘクタール
高さ 2.9 メートル3.5 メートル
歴史
完成 紀元前3250年
放棄 紀元前3000年
時代 ジェムデト・ナスル期ウバイド文化初期王朝時代 Iウルク文化
追加情報
発見 1926年
発掘期間 1926年、1928年、1988~1989年
関係考古学者 Stephen Herbert LangdonLouis-Charles WatelinRoger Matthews

ジェムデト・ナスル (じぇむでと・なする、アラビア語:جمدة نصر)はイラクバービル県に位置する遺丘(集落のあった丘を指す)である。ジェムデット・ナスル、ジャムダット・ナスルとも称される。ウルクIII期という異なる時代区分の下で、ジェムデト・ナスル期(紀元前3100年から紀元前2900年ごろ)と同名の標式遺跡としても知られている。また、シュメール最古の都市の1つでもある[1]。北東にはテル・バルグティアット(またはテル・バルグーティアット)が位置する。この遺跡は新バビロニア時代からササン朝ペルシア時代のものである[2][3]。1926年にスティーヴン・ラングドンによって発掘され、古代の行政中心地と考えられる巨大な泥煉瓦製の建物と原楔形文字粘土板が発見された[4]。2度目の発掘は1928年に行われたが、この時の記録は非常に乏しいものとなった。その後、1980年代にイギリスの考古学者であるロジャー・マシューズが主導して行った発掘調査では、ラングドンによって発掘された建物の移転も行われた。また、発掘調査により、この遺跡にはウバイド期ウルク期初期王朝時代 Iにも人が住んでいたことが判明している。この遺跡から発見されたテキストによると、エンシのNI.RUはエンシの古代名であったと考えられる[5]。古代において、この都市は主要なシュメールの中心地を運河沿いに位置していた[6]

発掘史

座った牛 ルーブル美術館AO7021

1925年、キシュで発掘を行っていたチームは、キシュから北東に26km(16マイル)先に位置する、ジェムデト・ナスルと呼ばれる遺跡で、地元の人々が粘土板や彩色陶器を発見したという報告を受ける。後の1926年1月6日、ラングドンとヘンリー・フィールドがこの遺跡に訪れた。この際、象形文字の書かれた粘土板が複数発見されたことにより、発掘調査の必要性があると判断された。焼けた小麦もいくつか発見され、後に小麦(Triticum turgidum)であると判明した。これはこの地域における小麦の存在の最も古い例である。ジェムデト・ナスルでの最初の発掘調査は1926年に行われた。指揮をとったのはオックスフォード大学アッシリア学教授であり、キシュの発掘調査の責任者でもあったスティーヴン・ラングドンである[7]。発掘作業は1ヶ月以上続き、作業員は12~60人が雇用された[8]。しかし、ラングドンは考古学者ではなく、レオナード・ウーリーによるウルの研究で象徴されているように、彼の記録管理は当時の水準から見ても、とても満足なものとは言えなかった。ラングドンはジェムデト・ナスルにて熱になり、そのまま完全回復することなく、この時の発掘は終了した[9]。結果的に、粘土板を含む遺物の正確な発見場所に関する多くの情報が失われた[10]。また、4500平方メートル(92メートル×48メートル)という大型の泥煉瓦建造物が発掘され、中からは原楔形文字の書かれた粘土板が大量に発見された。使用されていた煉瓦はリーメヒェン煉瓦(Riemchen、20×85×8センチメートル)とフラッハツィーゲル煉瓦(Flachziegel、23×9×65センチメートル)という形式のものが用いられた。リーメヒェン煉瓦は一部が焼成され、フラッハツィーゲル煉瓦は全てが焼成されていた。全ての煉瓦は焼成される前に1センチメートルの穴を3箇所開けられていた[11][8]。この時の発掘調査で発見された物は、バグダードイラク国立博物館オックスフォードアシュモレアン博物館シカゴフィールド自然史博物館に分配された。アシュモレアン博物館とフィールド自然史博物館はキシュおよびジェムデト・ナスル発掘の共同出資者でもあった[12]。第二次発掘は1928年に開始された。この時の発掘は3月13日から同月22日まで行われ、指揮は当時キシュの現場責任者であったルイ・シャルル・ワテリンによって行われた。また、ヘンリー・フィールドも同行した。この時の発掘では120人の作業員が雇用された。発掘調査は20日間を予定されていたが、バッタの大量発生により11日で終了した[8][13]。ワテリンは遺跡での発掘調査記録をほとんど残さなかったが、わずかな記録から、ラングドンと同じエリアで発掘を行っていたと思われる[14]

1988年と1989年には、イギリスの考古学者、ロジャー・マシューズの指揮の下、さらに2度の発掘調査が行われた[15]。1988年の発掘の目的は、遺跡の考古学的調査を実施すること、円丘Bに位置する大型建造物を再訪すること。これはラングドンが発見したもののほとんど発表されてこなかった。そして、円丘Aの地表に見える新バビロニア時代またはそれ以降の時代の焼成煉瓦造りの建物を調査することだった[16]。1989年の発掘調査でも、再びマシューズが指揮をとり、発掘小屋も建設された。調査はこの地域における古代の居住地を探索することを目的としており、円丘Bに重点が置かれていた。円丘Aでの発掘作業は行われなかった[17] 。発掘調査はさらに行われる予定だったが、1990年の湾岸戦争により不可能となり、それ以来この遺跡での発掘調査は行われていない[18]。この発掘の記録は現在もバグダードにあり、写真はデジタル化されている[19]

1920年の発掘調査の後より、ジェムデト・ナスルにおける発見物の重要性はすぐに認識された。1930年にバグダードにて開催された大規模な会議にて、ジェムデト・ナスル期ウルク期初期王朝時代の間に挿入され、ジェムデト・ナスルは時代区分の名前の由来になると同時に標式遺跡となった。これ以降、ジェムデト・ナスル期の特徴を有する遺構はアブー・サラビーフ、ファラニップルウルウルクを含むイラク中南部の遺跡でも確認されている[20]現在、ジェムデト・ナスル期は一般的に紀元前3100年から紀元前2900年ごろとされている[21]

環境

ジェムデト・ナスルは「ナスルの小丘」と訳すことができ、この名は20世紀の署名なシャイフにちなんで名づけられた。ジェムデト・ナスルは現イラク中部のバービル県、古代におけるメソポタミア南部に位置している。1950年代のムサイイェブ灌漑計画が実施されるまでは、この地域は半砂漠地域であった。今日では、この場所は農業用の灌漑が盛んに行われている。この遺丘は円丘A、B、Cで構成されており、これらは互いに隣接している。円丘Aは160×140メートル(520×460フィート)、高さは2.9メートル(9フィート6インチ)、総面積は1.5ヘクタール(3.7エーカー)。円丘Bは円丘Aの北東に位置し、大きさは350×300メートル(1150×980フィート)、総面積は7.5ヘクタール(19エーカー)、現在の平野の標高よりも300メートル高い位置にある。円丘Cは円丘Bの東500メートルの位置にあり、主に焼成煉瓦の破片で構成されている。また、地表からはイスラム時代のものもいくつか発見されている[22]

居住の歴史

居住は遅くともウバイド期にはじまり、初期王朝時代 I まで続いたと考えられる。ウバイド期におけるこの遺跡への居住についての発掘調査は行われていないものの、円丘Aからはウバイド期の陶器、粘土製の鎌、粘土製の円錐の破片が発見されたことから、居住が行われていたと推測されている[23]。1920年代と1980年代に行われた発掘調査では、ウルク期中期(紀元前四千年紀)の陶器が大量に発見された。この時期には円丘AとBの両方で居住が行われていたとみられる。ウルク期後期(紀元前四千年紀後半)には、円丘Bに大規模な集落が存在していたと考えられるが、適切に発掘された考古学的証拠が不足しているため、円丘Bの状況を解明することは困難を極める[24]

ジェムデト・ナスル期(紀元前3100年~紀元前2900年)における集落は、円丘Bの4~6ヘクタール(9.9~14.8エーカー)の範囲に分布している。この中の0.4ヘクタール(0.99エーカー)の範囲には、ラングドンにより発見された泥煉瓦の建築物が1軒あり、この建物から多数の粘土板が発見された。この建築物内や周辺には、陶器やパンを焼くための窯や、織物などの工芸品が見つかっている。このような工芸品や農作物の大半は、原楔形文字の粘土板に多く記載がある。このことは、経済の大部分が中央集権的に管理され、運営されていたことを示している。ジェムデト・ナスルの文書には、「SANGA AB」という用語が登場しており、この言葉が高位の役人を意味している可能性がある。この建築物は火事によって焼失したと考えられる。また、広範囲における交易関係を示す証拠は見られず、宝石やその他外国産の物品も発見されていない。しかしながら、ジェムデト・ナスル期の典型である陶器の均質さは、地域間の密接な交流を示唆している。加えて、ラルサ、ニップル、ウル、ウルク、テル・ウカイアを含むメソポタミア南部の複数都市を列挙した印がジェムデト・ナスルの粘土板に刻まれていたことも、この考え方を強固なものとしている[25]

ジェムデト・ナスルの建築物が崩壊してからも、この遺跡への居住は継続していたと考えられる。陶器の形態がジェムデト・ナスル期のものから、初期王朝時代 Iの形態へと徐々に変化しているためだ。少なくとも、初期王朝時代を代表する建造物が1軒、円丘Bにて発掘されている。地表上の初期王朝時代の陶器の分布によると、この集落はジェムデト・ナスル期のものよりも小規模と考えられる[26]。円丘Aでは、初期王朝時代の墓が1基発見されたが、この時期に人が暮らしていたことを示す他の証拠は発見されなかった。円丘の地表に見られる要塞はパルティアのものと考えられるが、この地域からは年代をはっきりと示す陶器が発見されていないため、正確な年代の特定は不可能だった[27]

文化

原楔形文字の粘土板以外にも、ジェムデト・ナスルは多彩色・単色で彩られた陶器でよく知られている。壺には、幾何学的モチーフ、鳥、魚、山羊、サソリ、蛇などの動物、木が描かれている。しかしながら、陶器の大半には装飾が見られず、彩色された陶器の大半が中央の大型建造物から発見されたと思われる。このことは、この建造物が特別な機能を有していることを示唆している。陶器には、大きな広口瓶、ボウル、注ぎ口のある杯、カップなどがある[28]

ジェムデト・ナスル期(紀元前3100年から紀元前2900年)の陶器製広口瓶 アルビール文明博物館

ジェムデト・ナスルでは円筒印章、スタンプ印章、粘土板に押された円筒印章が多数発見されている[29]。様式的には、こうした印章は前時代であるウルク期から継続している。円筒印章には人間や動物が非常に粗い様式で描かれている。80枚以上の粘土板には、封印がされており、人間、動物、建物、容器、他にも抽象的なものが描かれていた。粘土板に施された封印は、いずれも遺跡で発見された印章で捺されたものではなかった。このことは封印が行われた場所がジェムデト・ナスルの外、または印章が壊れやすい素材で作られていた可能性がある。13枚の粘土板の封印には、ジェムデト・ナスル周辺に位置している都市であるラルサ、ニップル、ウル、ウルクなど、多くの都市の名が刻まれている[30]

1920年代の発掘調査にて発見された多くの物品は、出版基準が不十分なものだったため、当時の状況を復元することは出来なくなっている。そのため、ジェムデト・ナスルの発掘物は地層学・年代順に管理されている他の遺跡で発見されたものと比較することによって年代を特定できるものが多い。この時代に発見された遺物の多くは、ウルク期から初期王朝時代 I 時代のものと考えられる。ジェムデト・ナスルでは製のものはほとんど発見されていない。しかし、少ない銅製品の中には手斧、釣り針、ガチョウの形の小さなペンダントなどがある。細長い突起の付いた取っ手と、縁に長方形の刻みこみの入った石製の杯は、これまで他の遺跡では発見されていない。十字が刻まれた大量の磨製石器の用途は不明なものの、ボーラとして使用されたものと考えられる。これらはウルク期の遺跡でよく見られる。何故ならジェムデト・ナスルの周辺は粘土が原料として広く入手でき、粘土製品が非常に一般的なためである。粘土製品には焼成した粘土煉瓦、粘土鎌、排水管の破片、へら、紡錘車、小型荷馬車などがある。ビーズや小さなペンダント、人形は、石、貝殻、骨、粘土、フリット(ガラス原料を指す。イタリア語の「揚げる」を意味する語、または同名の料理とは別)で作られていた[31]

原楔形文字テキスト

1925年にキシュの発掘者が報告した粘土板は、ジェムデト・ナスルで最初に発見されたものではなかった可能性もある。1915年以前には、既にフランスの古美術商人がジェムデト・ナスルから略奪によって持ち出されたと考えられる粘土板を購入していた。この時の古美術商人、ドゥマニ・フレールはこれらの粘土板をルーブル美術館大英博物館に一括売却した。一方で、彼のもとに転売された粘土板は後にジェームズ・ブレステッドがシカゴの東洋学研究所へと購入している[32]。1930年代にキシュで購入された粘土板群も、ジェムデト・ナスル由来であると主張された。しかしながら、これらの粘土板は1926年にジェムデト・ナスルにて発見された粘土板と様式上の差があり、この主張は可能性が低いものと考えられる[33]。1926年の最初の発掘調査では円丘Bから150から180枚の粘土板が発見された。枚数の誤差は、発掘者による管理不備によって生じている。実際これらの粘土板のいくつかは、ワテリン指揮下で行われた1928年の発掘調査で発見されたものの可能性もある。発掘調査で発見された粘土板は、オックスフォードのアシュモレアン博物館とバグダードのイラク国立博物館に所蔵されている。この遺跡からはウルクⅤ期(紀元前3500年から紀元前3350年ごろ)の粘土板が2枚発見された。これらの粘土板は「数字板(numerical tablets)」、または「刻印板(impressed tablets)」と呼称されている[32]

ジェムデト・ナスルの粘土板は原楔形文字で記述されている。原楔形文字は紀元前四千年紀後半に出現したと考えられる。初期は絵文字を主流とした少数の記号からなる文字だったが、ジェムデト・ナスル期には既に抽象的でシンプルなデザインへと変化の傾向が見られた。ジェムデト・ナスル期に、この文字は象徴的な楔形を獲得した[34]。一方で、シュメール語と考えられているものの、こうした粘土板の言語を確実に特定することは出来ない[35]。この時代の文書はウルク、テル・ウカイヤ、カファージャで発見されている[36]

ジェムデト・ナスルの粘土板は行政記録を主としている。様々な物品、食料、家畜について書かれた長いリストであり、こうした品は中央集権的権力から民衆へと分配されたものと考えられる[37]。従って、行政記録には穀物の栽培・加工・再分配の記録、家畜の群れの集計記録、ビール、果物、織物などの二次製品の分配記録、その他にも定義不能な様々な物品が記載されている。6枚の粘土板には、表面積を用いた農地面積の計算について記されており、こうした計算記録における最古の例である[38]


脚注

  1. ^ Archaeological Periodisation Chart at Cuneiform Digital Library Initiative”. 2020年4月27日閲覧。
  2. ^ S. Langdon and D. B. Harden, "Excavations at Kish and Barghuthiat 1933", Iraq, vol. 1, no. 2, pp. 113–136, 1934
  3. ^ Langdon, S., "Tablets from Barghuthiat", Revue d’Assyriologie et d’archéologie Orientale, vol. 30, no. 4, pp. 189–91, 1933
  4. ^ Stephen Langdon, "New Texts from Jemdet Nasr", Journal of the Royal Asiatic Society, pp. 837-844, 1931
  5. ^ Englund, Robert K., "Proto-Cuneiform Texts from Diverse Collections", MSVO 4, Berlin:Gebr.MannVerlag, 1996
  6. ^ [1]McGuire Gibson, "The city and area of Kish", Field Research Projects, 1972
  7. ^ [2] Ernest Mackay, "Report on the Excavations at Jemdet Nasr, Iraq", Field Museum of Natural History. Anthropology, Memoirs, vol. I, no. 3, Chicago, 1931
  8. ^ a b c Matthews 1992, pp. 1–3
  9. ^ Langdon, S., "Ausgrabungen in Babylonian seit 1918", Der Alte Orient 26, pp. 3–75, 1927
  10. ^ Matthews 2002, p. 2
  11. ^ Moorey, P. R. S., "The Late Prehistoric Administrative Building at Jamdat Nasr", Iraq, vol. 38, no. 2, pp. 95–106, 1976
  12. ^ Matthews 2002, p. 4
  13. ^ Field, H., "The Track of Man", New York: Doubleday, 1953
  14. ^ Matthews 2002, p. 6
  15. ^ Matthews, Roger J., "Jemdet Nasr: The Site and the Period", The Biblical Archaeologist, vol. 55, no. 4, pp. 196–203, 1992
  16. ^ Matthews 1989
  17. ^ Matthews 1990, p. 25
  18. ^ Matthews 2002, p. ix
  19. ^ [3] Mónica Palmero Fernández, "Using DSLR to 'Scan' Colour Slides: learning from the Digitising Jemdet Nasr 1988–1989 Project", Internet Archaeology, vol. 55, 2020 doi:10.11141/ia.55.10
  20. ^ Pollock 1990, p. 58
  21. ^ Pollock 1999, p. 2
  22. ^ Matthews 1989, pp. 225–228
  23. ^ Matthews 1989, p. 247
  24. ^ Matthews 2002, p. 33
  25. ^ Matthews 2002, pp. 33–37
  26. ^ Matthews 2002, pp. 33–34
  27. ^ Matthews 1989, p. 246
  28. ^ Matthews 2002, pp. 20–21
  29. ^ Roger J. Matthews, Cities, Seals and Writing: Archaic Seal Impressions from Jemdet Nasr and Ur, Materialien zu den frühen Schriftzeugnissen des Vorderen Orients, vol. 2, Berlin: Gebr, Mann Verlag, 1993, ISBN 978-3786116868
  30. ^ Matthews 2002, pp. 17–19
  31. ^ Matthews 2002, pp. 30–32
  32. ^ a b Englund & Grégoire 1991, pp. 7–8, 16
  33. ^ Matthews 2002, p. 3
  34. ^ Woods 2010, pp. 36–37
  35. ^ Woods 2010, pp. 44–45
  36. ^ Woods 2010, p. 35
  37. ^ Matthews 2002, pp. 34–35
  38. ^ Englund & Grégoire 1991, pp. 8–9

参考文献

関連項目

  • [5]Barton, George A., "Archæological News from Iraq", Bulletin of the American Schools of Oriental Research 33.1, pp. 11-12, 1929
  • [6]Field, Henry, "The Field Museum-Oxford University expedition to Kish, Mesopotamia, 1923-1929", Chicago: Field Museum of Natural History, 1929
  • Field, Henry (1932), “Human Remains from Jemdet Nasr, Mesopotamia”, Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland 64 (4): 967–970, doi:10.1017/s0035869x00153766, JSTOR 25194618, https://jstor.org/stable/25194618 
  • Field, Henry; Martin, Richard A. (1935), “Painted Pottery from Jemdet Nasr, Iraq”, American Journal of Archaeology 39 (3): 310–320, doi:10.2307/498618, JSTOR 498618, https://jstor.org/stable/498618 
  • Harden, D. B., "A Typological Examination of Sumerian Pottery from Jamdat Nasr and Kish", Iraq, vol. 1, no. 1, pp. 30–44, 1934
  • Langdon, Stephen Herbert (1928), The Herbert Weld Collection in the Ashmolean Museum: Pictographic Inscriptions from Jemdet Nasr Excavated by the Oxford and Field Museum Expedition, Oxford Editions of Cuneiform Inscriptions, 7, Oxford: Oxford University Press, OCLC 251013706 
  • Matthews, Roger, and Monica Palmero Fernandez, "Jemdet Nasr field diapositives, 1988-1989", 2021
  • Matthews, R., "After the archive: Early Dynastic I occupation at Jemdet Nasr, Iraq", Al-Rāfidān 18, pp. 109–17, 1997

外部リンク




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