シャリーア導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:36 UTC 版)
「第二次スーダン内戦」の記事における「シャリーア導入」の解説
1983年に、ヌメイリ政権のイスラーム化運動の一環としてスーダンをムスリム・アラブ国家にする意向が示された。南部は3つの地域に分割され、シャリーアが導入された。これにはムスリム集団の間でも議論となった。ヌメイリ政権のスーダン社会のイスラーム化の信頼性に疑問を示した、マフディー派指導者のサーディク・アル=マフディー(英語版)は、自宅軟禁下に置かれた。4月23日、ヌメイリは非常事態を宣言し、シャリーアの適用を拡大した。憲法上で最も保障された権利が停止され、「明白な治安裁判所」と分かる、刑事事件に対する大まかな司法権を持つ非常時法廷が、後に北部で設置された。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちは、非常事態の間、一般的であった。北に住んでいる南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。これらの出来事と、他の長年の不満も、内戦再開の元になった。
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