シティでの活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 18:48 UTC 版)
「バート・トラウトマン」の記事における「シティでの活躍」の解説
1950-51シーズン終了後、シティは降格からわずか1シーズンでトップリーグに戻った。トラウトマンは以後の数年間に行われた250試合の内245試合に出場し、リーグ有数のキーパーとしての地位を確立した。1952年までにトラウトマンの名声は母国ドイツにも広まり、シャルケ04はシティに対して1000ポンドのオファーを提示したが、シティはこのオファーを断り、トラウトマンにはその20倍以上もの価値があるとした。 1950年代半ば、シティのレス・マクドウォール監督は低い位置にセンターフォワードを置く新たな戦術を導入し、ドン・レヴィーがセンターフォワードを務めたことで、この戦術はレヴィー・プランと呼ばれた。当時のキーパーは、シュートをキャッチすると敵陣に向かってできる限り遠くまで蹴っ飛ばすのが一般的だったが、レヴィー・プランは長時間のボールポゼッションが鍵となる戦術であり、トラウトマンにはキック力ではなくスローイング能力が求められた。1953年のイングランド代表対ハンガリー代表の試合でハンガリーのキーパー、グロシチ・ジュラが見せたスローイングの影響で、トラウトマンはケン・バーンズ(英語版)やジョン・マクタヴィッシュ(英語版)が務めたウィングハーフにボールを投げて攻撃を開始することを試みた。ウィングハーフはトラウトマンからボールを受けると、センターフォワードのレヴィーにパスを繋げた。この戦術が功を奏し、レヴィーは1954-55シーズンにFWA年間最優秀選手賞を受賞している。
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