サッカーアルジェリア民族解放戦線代表とは? わかりやすく解説

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サッカーアルジェリア民族解放戦線代表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/17 08:43 UTC 版)

サッカーアルジェリア民族解放戦線代表
国または地域 アルジェリア民族解放戦線
協会 フランスサッカー連盟[1]
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合 1958年4月1日チュニジア
7-1
最大差勝利試合 1958年4月15日チュニジア
8-0
1959年10月8日モロッコ
8-0[2]
最大差敗戦試合
未敗北[3]
FIFAワールドカップ
出場回数 0回

サッカーアルジェリア民族解放戦線代表(サッカーアルジェリアみんぞくかいほうせんせんだいひょう、英語: FLN football teamアラビア語:   فريق جبهة التحرير الوطني لكرة القدم‎,[4]フランス語: Équipe du FLN de football)は、かつて存在したアルジェリアのナショナルチームである。代表チーム自体は宗主国だったフランスに置かれた。

1954年10月10日フランスからの独立を勝ち取るために、アルジェリア民族解放戦線が創設されると、1958年4月1日にフランスでプレーする選手が中心となって、その代表チームが結成された。当時すでに、サッカーはフランス領アルジェリア国内でも盛んだったが、優秀な選手はフランス本土でプレーしていた。このチームの目的は、サッカーを通してアルジェリアの存在を世界にアピールし、独立の機運を高めることにあった。そのため、フランスサッカー連盟は代表に対して圧力をかけ、FIFAに加盟させなかった。そのかわりに、代表は8回にわたって世界遠征をすることを許され、アフリカ(主にチュニジアモロッコ等の北アフリカ諸国のナショナルチームとの試合)、アジアイラク中国の地域選抜・イラク陸軍、サッカー北ベトナム代表との試合)、ヨーロッパハンガリーユーゴスラビア等の東欧諸国のナショナルチームとの試合)を巡った。これらの試合では、チュニジア代表やモロッコ代表に8-0で勝つなど、ナショナルチームに不敗(ただし、中国遠征で北京選抜に2-4、天津選抜に1-5で敗れたことがある)という好成績を残した。

1962年7月5日にアルジェリアが独立すると、アルジェリア本土にアルジェリアサッカー連盟(FAF)が設立された。このため、アルジェリア民族解放戦線代表の存在意義が無くなり、翌1963年に、既にアルジェリア本土にあったサッカーアルジェリア代表に吸収されるかたちで消滅した。最後の試合は、1962年5月のハンガリー戦(ブダペスト)で2-2の引き分けだった。

脚注

  1. ^ フランス領アルジェリアとして、フランス国内にチームが設けられたため。
  2. ^ 1959年2月3月イラク遠征を行い、バグダード選抜に10-1で勝った記録が残っている。
  3. ^ ナショナルチームでは不敗だった(引き分けはあった)が、1959年10月12月に行った中国北ベトナム遠征では天津選抜に1-5で敗れた記録が残っている。
  4. ^ アラビア語の発音 fariq jabhate al-taḥrir al-watani

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