ゴリツィンによる2度のクリミア遠征の失敗
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「露土戦争 (1686年-1700年)」の記事における「ゴリツィンによる2度のクリミア遠征の失敗」の解説
神聖同盟に基づいて大トルコ戦争に参戦したロシアは、摂政ソフィアの主席顧問で愛人とも噂されたヴァシーリー・ゴリツィンによって1687年にオスマン帝国の従属国のクリミア・ハン国に対するクリミア遠征が行なわれるが、草原地帯を進軍中に火災が起き、辺り一面が焼け野原となり馬の飼料と補給用の水が不足する事態が起きて、ロシア軍は撤退をやむなくされ遠征は失敗した。しかし、モスクワでは遠征に勝利したとして凱旋の祝賀会が開かれた。 1689年の年明けにイヴァン5世と共にロシアの共同統治者であったピョートル1世がエヴドキヤ・ロプーヒナと結婚するが、ピョートル1世は結婚によって一人前の大人として扱われることとなり、摂政ソフィアの立場が微妙なものとなる。 同年2月に再びゴリツィンによって行なわれたクリミア遠征も馬の飼料と水の輜重不足のため退却せざるを得なくなり、オスマン帝国軍やコサック兵に追い討ちをかけられるなど完全な失敗に終わった。ソフィアはあくまで勝利で押し通そうとしたが、7月にモスクワに戻ったゴリツィンら軍を称えるためのテ・デウム(朝課)にピョートル1世は出席を拒絶した。 8月、ピョートル1世はソフィアに銃兵部隊で襲われることを危惧して至聖三者聖セルギイ大修道院に避難するが、銃兵部隊はかえってピョートル1世を支持し、9月にソフィアは全顧問官をピョートル1世側に引き渡し、ノヴォデヴィチ女子修道院に幽閉させられ失脚した。 ソフィアの失脚後はピョートル1世の実母ナターリヤが国政の実権を握ったが、ナターリヤが1694年に死去するとピョートル1世が親政を開始した。
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