クートの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 00:53 UTC 版)
クートは第一次世界大戦時にはクートの戦いが起き、激戦地となった。バスラから北進してきたチャールズ・タウンゼンド率いる英国メソポタミア遠征軍は1915年9月26日にクートに到着し、さらに北進してクテシフォンへと向かったが敗北して、再びクートへと撤退していた。これを追うオスマン帝国軍は、1915年12月7日にドイツのコルマール・フォン・デア・ゴルツの指揮の下、クートの包囲を開始した。英国騎兵ジェラルド・リーチマンらは包囲からの脱出に成功したものの、タウンゼンドをはじめとする大多数の兵は包囲下からの脱出に失敗し、1916年4月29日についに降伏した。降伏した兵士らはオスマン帝国の降伏まで重労働を課せられ、半数以上が死亡した。後に体勢を立て直した英国は1916年12月に再侵攻を開始し、1917年2月23日にはクートを奪回した。
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