ガーハダヴァーラ朝とは? わかりやすく解説

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ガーハダヴァーラ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/06 03:00 UTC 版)

ガーハダヴァーラ朝(ガーハダヴァーラちょう、英語:Gahadavala dynasty)とは、11世紀末から12世紀まで、北西インドを支配したヒンドゥー王朝(1090年 - 1193年)。ラージプートの王朝でもある。首都はカナウジ

歴史

1018年、北西インドを支配したプラティーハーラ朝は、ガズナ朝マフムードによって大打撃をうけ、1036年に滅亡したのちに分裂した。その後、ヴァーラーナシーからドアーブ地方(ガンジス・ジャムナー川間の地域)はガズナ朝やマールワーパラマーラ朝の侵攻を受けることもあれば、カラチュリ朝に一部支配が置かれるなど混乱が続いた[1]

だが、1080年代前半にガーハダヴァーラ氏族のチャンドラデーヴァが北インドを確立した[2]。彼は1090年に「マハーラージャーディラージャ」を名乗り、カナウジを都にガーハダヴァーラ朝を建国した[2][3]

次王ゴーヴィンダチャンドラはこの王朝の最も偉大な王であった。彼はカシュミール王国やグジャラートのチャウルキヤ朝、さらには南インドのチョーラ朝とも同盟し、北インド一帯に勢力を広げた[2]。また、弱体化していたベンガルのパーラ朝に攻撃をかけ、マガダ地方の一部を奪取し、その支配は東インドにまで広がった[2][3]

1155年、ゴーヴィンダチャンドラの息子ヴィジャヤチャンドラが後をついだが、彼の治世の末期より、アフガニスタンゴール朝の勢力がカシュミール方面へと侵入していた。また、同世紀からラージャスターン地方で台頭してきたチャーハマーナ朝とドアーブ地方の支配をめぐって争うようになってきた[2]

1170年、ヴィジャヤチャンドラの息子ジャヤチャンドラが後を継いだが[4]、彼の治世はラージャスターン地方のチャーハマーナ朝との関係が悪化していた[2]。関係悪化の原因の一つは、ジャヤチャンドラの娘サンヨーギターとチャーハマーナ朝のプリトヴィーラージャ3世の関係だった[2]

あるとき、ジャヤチャンドラは自分の娘の婿選びに、各地の諸王に手紙を出し、首都カナウジに来るように伝えたが、プリトヴィーラージャ3世は敵国の王だったため拒否された。だが、プリトヴィーラージャ3世は従者とこっそり都にやってきて、ジャヤチャンドラの娘と恋仲になり、勝手に連れ去ってしまった。

このフィクションであろう話は物語詩に歌われ、のちにチャンド・バルダーイーが、「プリトヴィーラージ・ラーソー」という文学作品を出しているが、ジャヤチャンドラはこれに激怒し、この一件は隣接する両国の関係を悪化させた。

そのため、11世紀末にゴール朝の勢力が侵略し、プリトヴィーラージャ3世がゴール朝の勢力と対決したとき、ジャヤチャンドラは援軍を出さず、1192年にプリトゥヴィーラージャ3世は敗北した(タラーインの戦い[2][5][5]

しかし、ゴール朝の侵略の手はガーハダヴァーラ朝の領土にも伸びるようになると、ジャヤチャンドラは近隣諸国に援軍を求めた[2]。こうして、1193年にムハンマド・ゴーリー率いるゴール朝の軍とジャヤチャンドラの軍がチャンダワール(フィールーザーバード)で対決するに至った(チャンダワルの戦い)[2]

ガーハダヴァーラ朝の軍は各地からの援軍で100万(これはおそらく誇張だが、それでも大軍だったことは事実である)にも膨れ上がっていた。しかし、ゴール朝の軍はこれをたやすく打ち破り、軍を率いていたジャヤチャンドラは戦死し、事実上この時点をもって王朝は滅亡した[5]

勝利したゴール朝の軍勢はガーハダヴァーラ朝の首都カナウジを略奪、アースニー城塞、ヴァーラーナシーへと進撃した[2][5]。その後、この地域を拠点にゴール朝の武将ムハンマド・バフティヤール・ハルジーはビハールに侵入して莫大な富を得、ベンガルのセーナ朝をも攻撃した[5]

ジャヤチャンドラの死後、ガーハダヴァーラ朝はその息子ハリシュチャンドラによって継承され、カナウジを中心に命脈を保ち、奴隷王朝シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュに滅ぼされるまで存続した[6]。また、一部はラージャスターン地方へと逃げ、のちにマールワール王国を建国した。

歴代君主

  • チャンドラデーヴァ(在位:1090年 – 1114年)
  • ゴーヴィンダチャンドラ(在位:1114年 - 1155年)
  • ヴィジャヤチャンドラ(在位:1115年 - 1170年)
  • ジャヤチャンドラ(在位:1170年 - 1193年)

脚注

  1. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.31-32
  2. ^ a b c d e f g h i j k 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.32
  3. ^ a b チョプラ『インド史』、p.66
  4. ^ チョプラ『インド史』、p.67
  5. ^ a b c d e チョプラ『インド史』、p.72
  6. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.32-33

参考文献

  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 
  • P・N・チョプラ; 三浦愛明訳 『インド史』 法蔵館、1994年 

関連項目




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