カメラマンとしての足跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 23:07 UTC 版)
ベトナム戦争の戦地では、アメリカでジャーナリストとして有名なテッド・コッペル(英語: Ted Koppel)、ピーター・ジェニングスなどの放送記者とペアを組み、様々な作戦の取材を精力的に行った。戦地における勇猛さ、機敏さから「カミカゼ・トニィ(ヤスツネという名前が発音しづらいため、トニィという愛称で呼ばれていた)」 とニックネームを付けられた。 当時、世界各国からカメラマンやジャーナリストがベトナムに来ており、取材の合間に仲間同士で集まることも多く、平敷の現地歴が長かったことから開高健や、写真『安全への逃避』で知られるピュリッツァー賞受賞者の沢田教一など多くの日本人記者・カメラマンなどと交友があった。 また、1970年(昭和45年)沢田の死の前日、最後に会っていたのは平敷であり、お互いに写真を撮り合った。その写真が結果的に沢田の遺影として使われることとなり、一般的に知られる沢田の顔は、この遺影である。 ベトナム戦争時、親友を失った自責の念から、カメラマンに関わる賞・コンクールを拒否しており、関連する受賞歴等はない。
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